「NATSUMONOGATARI」論考(雑考)


要旨

 本論では、2004年に発売された「桜木町」と、その17年後にアフターソングとして発表された「NATSUMONOGATARI」について、2曲の関係性を踏まえ、「NATSUMONOGATARI」の立ち位置を明らかにしたうえで、その文脈のズレについての考察を行う。



●「桜木町」と「NATSUMONOGATARI」の比較(詞の表現方法)

 ここでは2曲の関係性を明らかにするために、詞を比較する。まず、大まかな表現の特徴に注目したい。「NATSUMONOGATARI」は「桜木町」のアフターソングである。そのため、「桜木町」の詞を
 1.そのまま引用している表現
 2.対照的に言い換えている表現
 3.類似的になっている表現
という3つの表現と、4つ目に
 4.「NATSUMONOGATARI」特有の表現
が存在している。
 「NATSUMONOGATARI」において、この4つの表現うち、最も使用頻度が高かったものは、「1.そのまま引用している表現」であった。以下、すべてを抜粋する。

「季節変わり」「何も無かったような顔して」「さよなら」
「待ち合わせ場所」「観覧車」「花火」「心変わり」「ありがとう」
「手を振るよ」「さよなら」

「変わり続けてく 見慣れてた街並みも だけど今も目を閉じれば あの日の二人がそこにはいる」

そして、完全一致とまではいかないが、元の詞を類似的に表現も散見されたため、参考までにあげておく。

「あの日の約束はもう叶わない 夜空の星」

「ベイブリッジの向こうに輝く 君と叶わなかった約束」
「新しい明日へ歩き出した」+「振り返らずに」

「振り返らず駆け出した未来」
「繋いだその手を いつまでも離したくなかった」

「つないだ手を離した 辛かった」
「待ち合わせ場所いつもの桜木町に 君はもう来ない」

「いつかの待ち合わせ場所にいるはずもない もう来ない最終電車も」

 以上、語彙の面から「桜木町」と「NATSUMONOGATARI」の切り取りを試みた。しかし、はじめに示したように、これらはあくまで単語レベルのことである。ここから了解されることは、「桜木町」で使用されている語彙はほぼすべて「NATSUMONOGATARI」で回収されているということである。このように、共通の表現がかなり多いということは明らかになったが、さらにもう一歩、踏み込んで考えてみたい。
 ここから問題となってくるのは、使用されている「文脈」の違いである。この2曲は、共通の語彙を数多く共有していても、その文脈が大きく異なる。以下、例を挙げて考察を行う。
 たとえば、先にそのまま引用されているワードのひとつとして挙げた「季節変わり」である。

「季節変わり 今も君の事 想い出してしまうけれど 何も無かったような顔して 今日も街に溶けて行く」
「季節変わり今さら 思い出が何になるっていうのだろう 「帰ろう」「帰りたくない」でも通り過ぎてゆく 誰かにあの日重ねて」

「桜木町」では「君」のことを思い出す装置としての役割を持ち、尚且つ後ろ(過去といってもよいのかもしれない)を振り向かずに進もうとしているのに対し、「NATSUMONOGATARI」では「君」との思い出を思い出すことに葛藤が生じている。さらに言うならば、思い出を思い出すことで傷つき、それでも「誰かにあの日重ね」ずにはいられない。より悲痛な詞になっているといえるだろう。
 これは他の言葉でも同様のことが言える。「大きな観覧車「花火みたいだね」って」という表現と、対を成す「時を刻む 観覧車 音のない花火」という表現にもその悲痛さが際立っている。


●「NATSUMONOGATARI」の立ち位置

 表現上の特色については、前述の通りである。では、我々は「桜木町」のアフターソングである「NATSUMONOGATARI」という曲を、どのように位置付ければよいだろうか。そのひとつの手がかりとして、以下の詞に注目しておきたい。

「心変わり今は責めても 違う誰かの元へ そしていつの日か忘れてゆく 君の笑顔も泪も」
「ここにあるんだ 並んで歩いたリアル あり得ない 消せないよ」

 ここにはかつて、「振り返らずに行けばいい いつの日か また笑って話せる時が来るさ」と「最後の手を振」った「僕」とは対照的に、「君」と過ごした影が残る街にとらわれ、その痕跡に触れては傷つく「僕」の姿が描かれている。
 また、管見によれば、「桜木町」の表現には、「辛い」、「悲しい」といった感情が直接的に表現されている箇所がない。しかし、「NATSUMONOGATARI」には「切ない」、「虚しくて」、「辛かった」というように、主観的な表現がなされている。ここから導き出せることは、「桜木町」が「僕と君の事実を語る」のに対し、「NATSUMONOGATARI」では「僕の痛みを語る」体がとられているのである。
 換言すれば、「NATSUMONOGATARI」の「僕」は17年経っても「君」のことを忘れられずにとどまったままなのだ。「桜木町」では「ふたりのために」それぞれが最善の結論として「別れ」を選択し、「最後の手を振る」。対して「NATSUMONOGATARI」では「僕」が不在の「君」に対して「何度も手を振る」。


 以上をまとめると、「NATSUMONOGATARI」には、「桜木町」と共通の語彙を使用しながらも、悲痛さと痛みが色濃い情念を形成しているということができる。


(稿者の思いつき解釈を少し。「17年後のいま」、もしかすると、「君」はもういないのかもしれない。だから「何度も手を振る」。古代から「手を振る」という行為は魂を呼ぶための行為なのである。それは萬葉集の歌などにも多く詠まれている。けれど稿者はこの立場をとらない。)


ここまでは、あくまで「NATSUMONOGATARI」を悲恋の歌の文脈として捉えた場合の考察である。稿者は、「NATSUMONOGATARI」は二重の文脈に覆われていると考える。もう一つの文脈での読みは稿を改めて述べたい。

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