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【FM店主日記Day41】行かなくてもいいところに行って、やらなくてもいいことをやる。

今まで散々色んなところに行ってきた。そして色んなものを見た。色んな人に会って、色んな暮らしを知った。

大自然を見て、すげえ、と思うこともないわけではないけど、どちらかと言うと僕は人工物の方が好きだ。昔の人が作った物とかそこに脈々と受け継がれる人の習慣とか叡知とか、なんなら落書きとかそういうものに心惹かれる。

中でも一番関心があったのが、人の何でもないような日常生活だ。写真を撮らない、日記にも書かない、動画も回さないような、掃いて捨てるほどある何気ない風景、夫婦や親子の他愛もなさすぎる会話や伝達事項、冷蔵庫に貼られたクリーニング屋の引換券やら今週の予定、買い物リスト、飼い猫とのやり取りとかから窓の開け閉めに至るまで、人のうちに泊まらせてもらってそんな取るに足らない無限にあるような言ってしまえば当たり前の、ごく普通の事柄に触れることが好きだった。

なぜかと言うと、そういうその人たちにとってありふれた風景は僕にとっては新鮮であり、そこでしか、その瞬間にしか見られない至って貴重な「他の誰かの日常」であり「他の誰かの暮らし」であり、「他の誰かの常識」のようなものだからだ。そこには彼ら独自のリズムがあり、彼らにしか奏でられない旋律があり、その場でしか表現できないハーモニーがある。繰り返してるだけのような波にも一つとして同じものがないように。言ってみれば日常生活とはその場限りの即興演奏であり、決め事が何もないようも思えるジャムセッションであり、繰り返しながらももう少しだけうまくやりたいとか、これは自分のやりたい演奏とは全然違うんだけどな、みたいな違和感を覚えながらも、不器用に、そしてある意味とても器用に、絶え間なく、あるいは途切れ途切れに話すようにただ続いていく。その断片を見ながら僕はその一連の全てを、そこにある絶妙な秩序を愛おしいと思う。

行かなくてもいいところに行って、やらなくてもいいことをやる。会わなくてもいい人たちに会って、しなくてもいい会話をする。日常を飛び出して、他の人の日常に飛び込んでみる。一見何の生産性もないように思えるこの行為は確実に僕の人生を豊かなものにしてきたし、僕の人生においてそれ以上に財産と呼べそうなものはないかも知れない。

自然人類学の観点から見ると、ホモ・サピエンスは30万年前に人類デビューして以来、生物としてはほとんど進化していないらしい。つまり、人の営みは30万年前から多分ほとんど変わらず、きっと、時には本当の自分はこんなのじゃないはずなのに、みたいな葛藤を抱えながらも、日常生活という即興演奏を続けてきたのだ。そんなことに想いを馳せる時、僕は目に映るもの全てを愛おしいと感じたりする。

フェルマータ店主 KAORU

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