都会にあるもの。見えないモノ。

このノートは、都会好き好き!の方が読むと不機嫌になるかも。
都会でちょっとつかれた私と、都会の刺激、およびそこで生きる人の考察。

今週、月曜から土曜まで、出社なり、遊びなり、数多くの時間を東京とか横浜、いわゆる大都会で過ごしてきた。


あたりまえだけど、どこに行っても人がいる。
看板も華やかだったり、よくわからん宣伝が聞こえてきたり、チャラチャラしたにーちゃんねーちゃんがいても、その人の近くを通らなきゃ行けなかったり。

変な人がいても、いちいち反応するからいけないのだけど、都会の人は見事にそれをスルーしてる。

満員電車でもそうだ。
あんなに人が電車の中にいると、ここぞとばかり、色んな人がいるなぁ、と、いつもまじまじ観察して、たまに目があってしまう。
みんなスマホだったり、音楽だったり、刺激の絶えない世界をシャットアウトするために、自ら新たな刺激を設定して、その中に逃げ込む。

都会にいると、常に常に外部の刺激を受けつづけなければならない。

大学時代にいた神戸も都会だけど、東京は何倍もレベルが違う。
無限に人が沸いてくる、全てがリスポーンスポットみたいなフィールド。
神戸という街は、南北を海と山に囲まれて、人は少なくないけれども、自然は感じやすい街だった。

それに、三ノ宮とか梅田とか、せいぜい月に1回も行ってないくらいだったし。

たまーに東京に行く分には疲れないんだけど、
人混みからノガレラレナイ感を一度感じるともうダメで、その後本当に動けなくなってしまう。

なんとか海老名に帰ってきて、人通りの少なさに安心感を覚える。

この前友人と会ったとき、え?海老名なんてどうして住んでるの?なんもないじゃんwww
なんて言われたけど、自然は近いし、少なくとも都会よりはやすらぎがある。

リラックス、やすらぎ。
ようは人が多すぎると刺激も多くて、何か感覚を味わったり、自分の思考や内面を見つめたり、そんな時間が一切取れなくなってしまうのだ。

実際、都会で育ったきた人と話すと、価値観が外部依存していたり、内面を見つめるということ自体が、機会がないから分からないのかなと感じる人も多い。少なくとも、田舎よりは。

刺激がなければない分、何もなければない分、そこに自分から何かを生み出そうとする性質を人間は持っていると思う。幼い子どもたちはそれがとっても得意だということは、見ていてよくわかるはず。

都会にいた1週間、私も自分の内面を見つめたり、自分で何かを生み出したり、そういう時間が減ったなと感じていた。刺激に対処するだけで1日が終わってしまう。

たくさんの刺激の中に、脱毛だの塾だのお洋服だの、提示された色んな幸せが散見されるけど、そこに感性を依存して、わたしたちは幸せになれるのだろうか。

私あてに、私を理解して向けられた刺激ではなく、大多数の中から引っかかるものをすくえればいいという網のような刺激のなかに、私たちの充実は見いだせるのだろうか。


そんなことを思いながら、お布団の中でゴロゴロしている休日も、アクティブな休日と同じくらい、私にとっては大切な時間だ。