全盛期の千代の富士から金星をあげた小兵力士
現役力士阿炎「アビ」という名は、錣山親方の昔のアダ名が由来だった
「阿修羅のように強く、炎のように燃えて戦った寺尾のどすこい大相撲人生」
寺尾 常史(てらお つねふみ)、鹿児島県姶良郡加治木町 出身、井筒部屋所属の元大相撲力士。身長185cm、体重116kg。
元関脇寺尾の錣山(しころやま)親方本名・福薗好文(ふくぞのよしふみ)さんが亡くなった。2023年12月17日、 60歳での死はあまりに早やすぎる知らせだった。
現役時代、回転の早い突っ張りとともに記憶に残る取組が多く、得意技は突っ張り、押し、いなし、叩き、下手投げ。最高位は東関脇。
ファミコンタイトルになった名力士
現役当時の寺尾関は、相撲ファンならもちろんのこと、子供でも名前を聞いたことがあるぐらい人気がある力士のひとりでした。その人気ぶりは、1989年にファミリーコンピュータ用ソフトとして寺尾関の名前がついたゲーム『寺尾のどすこい大相撲』がジャレコから発売されるほどでした。
ジャレコとは
株式会社ジャレコ(JALECO LTD.)は、かつて存在したゲーム開発会社で、最も知名度が高いタイトルは「燃えろ!!プロ野球」を代表とする「燃えプロ」シリーズ。その他のスポーツ系のゲームをはじめ、「忍者じゃじゃ丸くん」などのファミコンのヒット作を送り出すメーカーのひとつでした。
1986年には、「うる星やつら ラムのウエディングベル 」の発売や、1991年には、同じくファミコンソフトの『つるピカハゲ丸 めざせ! つるセコの証』を発売するなど、メジャータイトル以外のニッチなソフトも世に送り出したメーカーでもあります。
その「寺尾のどすこい大相撲」が発売された1989年前後の寺尾関の活躍とは、どのようなものだったのかを振り返ってみたいと思います。
1988年の寺尾関
寺尾関は、甘いマスクと気っぷの良い相撲が人気で116キロの小兵ながらも当時の人気も高く、まさに「土俵の華」と呼ばれる力士の一人でした。
幕内在位93場所は歴代6位。39歳まで土俵を務め、その姿は「鉄人」とも称されました。
寺尾関の父親はもろ差し名人で鳴らした元井筒親方(元関脇鶴ケ嶺)で、3人兄弟の末っ子。16歳のとき、母の死をきっかけに、相撲部屋への入門を決意。昭和54年名古屋場所初土俵で、長兄の元十両鶴嶺山、次兄の元関脇逆鉾とともに「井筒3兄弟」として人気を博しました。
3兄弟の関取は史上初の快挙で、その中でも寺尾関は、同じ昭和38(1963)年生まれの北勝海、双羽黒、小錦、琴ケ梅らと「花のサンパチ組」と呼ばれ、昭和から平成の土俵を盛り上げました。
1988年の昭和63年当時は24歳で、1月場所は東前頭3枚目、7勝8敗ながら、横綱大乃国を押し出しで破り初の金星をあげました。
5月場所と11月場所は8勝7敗と勝ち越すも他の場所は負け越しを記録しています。
1989年の寺尾関
当時人知を超えた強さを誇る横綱として君臨していたのが、稀代の名横綱、通称ウルフこと千代の富士関でした。小兵の寺尾は、過去の戦歴でもその大横綱に真っ向から挑み続けましたが、ぶつかっては叩き潰され、負け続けて、彼は8度目の挑戦でついに千代の富士を倒し金星を上げることになります。
当時の寺尾関本人にコメントでは、
「双差しが入って……最後どうしたのかわからない」「物凄く嬉しかった記憶はあるけど、あんまり覚えていない」という発言が残っています。
1990年、平成元年初場所8日目、全勝の千代の富士に土をつけた寺尾の決まり手は外掛けでした。千代の富士が力ずくで上手投げにきたところ、寺尾の右足が鋭く横綱の左足を刈っての初勝利でした。
背中から倒れた千代の富士が浮かべた苦笑が印象に残る一番だとも言われています。
千代の富士から奪った金星は、寺尾に初の殊勲賞をもたらすことにもなりました。
相撲ファンであれば、その後の取り組みで千代の富士が吊り落としで寺尾を土俵に叩きつけた一番も強く印象に残っているのではないでしょうか。
現役時代、自分より大きな力士を相手に、回転の速い突き、押しを武器に活躍し、闘志をむき出しにする寺尾の姿は、人々の心を打ちました。
日本一周編ストーリー
ここで、ファミコンの「寺尾のどすこい大相撲」に話を戻します。
ファミコン版に用意されたモードのひとつ「日本一周編」のストーリーに触れてみたいと思います。以下に、そのストーリーを引用します。
今、読み返すだけでも非常に胸熱なストーリーではないでしょうか。
当時でも、現役力士を主役にした相撲ゲームの発売は初めての快挙であり、この後、千代の富士関や若貴兄弟の名前を冠した相撲ゲームが登場するが、その先がけとなったのは、「寺尾のどすこい大相撲」だったと言って過言ではありません。
寺尾関は、2002年の秋場所終了後に引退して井筒部屋の親方に任命、 2年後の1月には錣山部屋を創設し、錣山としてその部屋の親方に任命され、その後は弟子達の指導にあたっていました。
今となっては、寺尾関がなぜこのゲームの主役に任命されたのかという謎は謎のままですが、一説によると寺尾関は、意外にもマスコミやテレビ番組などに対して好意的であり、コンピューターゲームについても好意的だったらしく、 開発元の要請についても承諾したのではないかという説も残っています。
晩年から引退へ
平成以降の印象的な取り組みとしては、貴花田戦も多くの人の記憶に残っている人も多いのではないでしょうか。
寺尾は、平成3年、1991年の春場所。初日から10連勝だった18歳の貴花田(後の横綱貴乃花)との初顔合わせで敗れると、土俵をたたいて悔しがり、花道で下がりを投げつけた。「自分は入門13年目で、相手は18歳。自分は今まで何をやっていたんだろうと思って、すごく悔しかった」と明かしています。
昭和から平成を彩った名力士の寺尾関でしたが、晩年は幕内と十両を行き来するようになり、十両11枚目で臨んだ2002年9月場所で負け越し、幕下陥落が決定。この場所を最後に、現役を退いくことになります。
この同じ場所で、12日目の相撲を現役最後とした力士がいました。同じく突き押し相撲を得意とした元関脇の貴闘力関。12日目の相撲で寺尾に敗れ、負け越して幕下陥落が既に決まっていた最後の取り組みについて、貴闘力関本人がこう振り返っています。
「突っ張った時にはたいたら、勝っていたかもしれないけど、この一番だけははたかないで突き切ろうと思って。ずっと突いたんだけど、気持ち良く最後は終えられたからよかった。現状の中でいちばんいい相撲が取れたから、負けはしたけどいい記念になったんですよ。最後の相撲が寺尾さんだった」
両者譲らぬ突っ張り合いの中、最後は寺尾がはたき込みで勝利を収めました。
平成の「若貴ブーム」に負けない人気を博し、歴代4位の通算1795回出場など“土俵の鉄人”としても名をはせた寺尾関のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
弟子の育成
2022年の大相撲九州場所は、錣山部屋所属の平幕・阿炎が、優勝戦線トップを走る2敗の高安を1差で追い、千秋楽を迎えました。大関・貴景勝を加えた3人による優勝決定戦に持ち込まれ、渾身の力を発揮した阿炎は2勝を上げ、初優勝を決めました。
弟子の晴れやかな舞台を、錣山親方は東京の病室のテレビで見届けたそうです。
入門時から有望視されていた阿炎に対して、錣山親方は他の弟子以上に厳しく接し、阿炎は入門からわずか11場所で、新十両に昇進。そのタイミングで、四股名を阿炎にあらためました。「あび」とは錣山親方こと寺尾関の幼少時からのニックネームでした。
阿炎という四股名には、「阿修羅のように強く、炎のように燃えて戦う」という意味も込められているそうです。
阿炎が、横綱・白鵬から金星を奪った時は、殊勲インタビューでVサインをするなど、奔放な愛弟子は錣山親方に冷や汗をかかせることも多かったと言われています。
弟子には終始厳しく接していた錣山親方だったが、「1つ屋根の下に暮らす弟子は、家族と同じだから」と、全員を下の名前で呼び、愛情を注いでいたそうです。
多くの関取を輩出した『寺尾のどすこい大相撲』は、弟子たちによって今後も続いていくのではないでしょうか。
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