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線でマンガを読む

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マンガ家の描く「線」に注目し、魅力を紹介する企画です。
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#エッセイ

線でマンガを読む『コマツ シンヤ』

うだるような暑さのなか、『線でマンガを読む』を書こうと思って本棚を物色していると、いいものを見つけた。コマツ シンヤの『8月のソーダ水』である。ページをめくると、気温が3℃くらい下がったような気分になる。 『8月のソーダ水』 架空の街、翠曜岬を舞台とした連作短編である。主人公のまわりで起こる、ちょっと不思議な出来事を、海のにおいのする青色をふんだんに散りばめた爽やかな筆致でつづったマンガだ。季節は夏だが、今の日本のようなむっとする熱気ではない。パラソルの下で、うたたねした

線でマンガを読む『藤子・F・不二雄』

あらためて読み返してみると、とんでもないエピソードが満載なのだ。「なんでも空港」という、”近くを飛んでいるものならなんでも降りてくる”ひみつ道具を使い、鳥や蝶を集めて遊んでたところまではよかったが、なんとジャンボジェットが引き寄せられて降りてきてしまう。物語は飛行機が不時着する寸前のところで終わるが、このあとどうなっただろう。ふつうに考えれば、大事件である。 『ドラえもん』 また、オンボロ旅館を立て直すためにドラえもんとのび太が奮闘する回では、旅館に食材を買うお金がなく、

線でマンガを読む『古屋兎丸×荒俣宏』

古屋兎丸はマンガ家になる前には美術の教師だったそうだ。絵画の正統的な教養を有するその絵は、人体の質感を細やかに描きだす。表情に線を加えることに禁欲的な作家であり、なまめかしい身体を持つが、感情の読み取れない、人形のような、ヒトであってヒトであらざるようなキャラクターを描いてきた。古屋作品には独特の離人感がある。私の好きなのは、荒俣宏とコラボした『裸体の起源』。 「マザーの花がひらく」。トビウオたちが浮足立っている。それは新たな人が誕生することを意味している。このたびは「嘆き

線でマンガを読む『座二郎』

電車のなかにゾウが現れたり、車両がまるごとバーになっていて、白い犬のようなバーテンに迎えられる。そのほか、文房具屋や回転寿司屋を営んでいる車両が、ふつうの通勤車両に連結されている。さらには、会社や住宅、水族館、あらゆる建物が列車の一部となって絶えず走り続けている不思議な世界と、現実を往還するお話だ。ロシア・アヴァンギャルドを思わせる色使いも魅力的。 『RAPID COMMUTER UNDERGROUND』 『RAPID COMMUTER UNDERGROUND ラピッド・

線でマンガを読む『あずま きよひこ』

ついこのあいだ、あずまきよひこの『よつばと!』14巻が発売されていたので、即購入。連載がはじまって15年というから驚きだ。休載期間もあったが、外国で「とーちゃん」に拾われて日本にやってきた幼児、よつばの微笑ましい日常を描いた作品を、あずまはまるで伝統工芸職人のような粘り強さで拵え続けている。 あずまの出世作は『あずまんが大王』という女子高校生の日常4コママンガ。この作品では、高校生活の3年間と実際の連載の期間をリンクさせていた。現実の1年分の連載にあわせて登場人物が進級し、

線でマンガを読む『大橋裕之』

「ナマケモノ」という生き物がいる。人間によってなんとも侮辱的な名前をつけられた動物だ。確かに、ふだんは木にぶら下がって怠けているように見えないこともない。しかし、彼にだって、本気を出すときがあるのだ。繁殖期を迎えると、オスは自分の島を出て、海を泳いでメスを探しに行くのである。ギャップというやつの効果は絶大で、木の枝にぶらぶらしているナマケモノが、このときばかりはと、命がけで泳ぐ姿に心を打たれる。 大橋裕之というマンガ家がいる。彼の作品では、貧乏な若者や、スクールカーストの真

線でマンガを読む『中村明日美子 後編』

マンガを読むさい、私たちは、無意識のうちにそこに描かれているものを「絵」と「コマ」に分け、前者がマンガの"中身"で、後者はその内容を伝達するための"容器"のようなものと考えている。そういうルールが刷り込まれているからだ。しかし、そのルールをいちど忘れてみたとき、両者に何らかの違いはあるだろうか。 乾パンなどでつくった「食べられる容器」というものがある。なかに入っている料理を食べたのち、それ自身も食べてしまえるような器。マンガの絵とコマの関係も、じつはこれに近いのではないか。

線でマンガを読む『中村明日美子 前編』

フランスの映画監督、ジェルメール・デュラックは、「絵画の素材が色であり、音楽の素材が音であるなら、映画の素材は運動である」と述べた。それに倣えば、マンガの素材は<線>だ。そして面白いことに、マンガにおいては、人物や物体、風景などといった、描かれるもの(絵)と、それらを異なる時間、空間の中に配置するもの(コマ)が、ともに線で成り立っている。画面に描かれている正方形の線が、「絵」なのか、あるいは「コマ」なのかを決定するのは、書き手と読み手の暗黙の了解に基づく。 たとえば上記のよ

線でマンガを読む『大島弓子』

前回の当コラムにて、手塚治虫がコマの枠線や絵のレイアウトを用い、巧みな視線誘導で、ドラマチックで読みやすい画面を設計したことに触れた。 (『火の鳥 生命編』手塚治虫 ※読者の視線の動きを緑線で図示した) いま、私は「設計」という言葉をつかったが、理知的で教養豊かな手塚は、その明晰な頭脳でもって、まさに建築の構造設計のようにマンガを組み上げていったのだと思われる。だから、手塚マンガの技法は人に説明しやすい。「この部分が視線誘導でこっちに行って…」という理屈を、言語化すること

線でマンガを読む『再び 手塚治虫』

たとえば、現代のマンガと、絵本の違いはなんだろうか。すぐに頭に浮かぶのは、絵が「コマ」と呼ばれる枠線によって仕切られている、ということ。日本のマンガは基本的に右上から左下のコマへと読んでゆく進めてゆく規則になっていて、それに伴って時間の経過や場所の転換が起こる。つまり物語が進む。 絵本の場合は物語を進めるために、ページをめくる必要がある。それはマンガも同じことだが、マンガの場合、コマによって絵を仕切ることで、ひとつのページのなかでも物語を進行させることができる。 (※ただ

線でマンガを読む『夏目房之介×手塚治虫』

『線でマンガを読む』について、毎回ご好評を頂いており、読者の皆様に感謝を申し上げたい。ここらで、自分がこのコラムを書くきっかけとなった尊敬する先達を紹介しておこうと思う。マンガ家兼マンガ批評家、夏目房之介だ。 NHK・BS2で1996年から2009年まで放送されていた『BSマンガ夜話』という番組がある。毎回ひとつのマンガ作品を取り上げ、さまざまな角度から語り合うという内容。レギュラーコメンテーターはマンガ家のいしかわじゅんと夏目房之介、評論家・岡田斗司夫の三人。司会進行は交

線でマンガを読む『売野機子』

マンガにおいて描かれる「美少女」とか「美人」の典型は、以下のようなものだろう。 (左:『火の鳥』手塚治虫  右:『恋は雨上がりのように』眉月じゅん) まず、目がとても大きい。顔全体の面積のかなりの部分を占め、瞳への光の入り方やまつ毛なども細かく描かれる。反対に鼻や口はできるだけさりげなく配置される。鼻の孔や唇は省略される。これは手塚治虫の時代から連綿と続くお約束だ。マンガ家の「キャラクターを描くときに、一番力をいれるのは、目」という旨のコメントは枚挙にいとまがない。キャラ

線でマンガを読む『西村ツチカ×岩明均』

変幻自在。西村ツチカにはこの言葉がふさわしい。物語によって、大胆にタッチを変える作家である。Gペン、ないし丸ペンを多用するが、同じペンでもまったく異なる雰囲気を演出する、高い表現力の持ち主だ。以下の4つの絵は、どれも西村の最新短編集『アイスバーン』に収められている作品から引用したものだ。ひとりの作家がこれだけ自由に絵柄を変えられる、ということに驚いてしまう。 (『アイスバーン』西村ツチカ 2017) アメコミのようなタッチから、少女マンガ的な繊細さまで、器用に操る西村だが

線でマンガを読む『タカノ綾×西島大介』

映画、小説などの作品には、その作品ごとの時間感覚、スピード感がある。例えば映画ではカットを短くつなげて素早い動作を演出したり、反対に、延々と同じカットを長まわしして、ゆったりとした時の流れを観客に感じさせたりという工夫によって、作品の「色」が決まる。マンガにおいて、映画のカット割りと相同の役割を果たすのは、コマ割りであるが、「線」そのものも時間感覚を決定する重要なファクターとなりうる。今回は、時間感覚において対照的な印象をもたらすふたりの作家、タカノ綾と西島大介の線を紹介した