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線でマンガを読む

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マンガ家の描く「線」に注目し、魅力を紹介する企画です。
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#エンタメ

『線でマンガを読む』黒田硫黄

「恋人もいないし、クリスマスなんてなにも楽しいことないぞ!リア充爆発しろ」という方に、ぜひ読んでいただきたいマンガである。たぶん深い共感が得られることと思う。 黒田硫黄の『大日本天狗党絵詞』は、職業、学歴、恋愛などといった社会のステータスとされるものからはみ出た人間たちが、「天狗」を名乗り、やがて日本国を一大危機に陥れるカルト集団となる物語。怪しげな術を用いて天狗たちの長となる「師匠」と、主人公「シノブ」の師弟の愛憎の物語でもある。 『大日本天狗党絵詞』黒田硫黄 講談社 

『線でマンガを読む』植芝理一

奇怪な事件が起こっている。とある女学校にて、数ヶ月のあいだに中等部の24人もの生徒が妊娠したのだ。学校は性的モラルの乱れとしてその生徒たちを停学処分にしたが、検査の結果、生徒たちは本当に妊娠していたわけではなかった。病院は彼女たち全員を、なんらかの精神的な抑圧で、身体が妊娠したときと同じ様子になる、「想像妊娠」だと推定するが、原因は分からない。 『夢使い』というマンガを、ざっくりと説明するならば、京極夏彦の影響を色濃く受けた伝奇ミステリに、萌えマンガの要素をつけたした作品、

『線でマンガを読む』ひさうちみちお

ハンガリー生まれの社会学者、カール・マンハイムが語るように、あらゆる知識、信念体系はそれを信ずる個人や集団の社会のなかでの位置によって規定される。誰にとっても都合のよい、真に中立的な知識や信念は存在しない。政治家は政治の、宗教家は宗教の、国民は自身の置かれた生活の枠組みのなかから、各々にとってよりベターとなる信念を表明する。 いっけん自分にとって不利益になるような行動をする人もいる。たとえば自分の全財産を慈善団体に寄付するような人だ。しかし、彼も先のマンハイムの言葉からけし

線でマンガを読む『遠藤浩輝』

遠藤浩輝が格闘技マンガを描きはじめたとき、大丈夫かな、と思った。遠藤には『EDEN 〜It's an Endless World!〜』という近未来SF作品があって、これが傑作だったからだ。『EDEN』にはJ・G・バラードの影響を多分に受けたとおぼしい、人類のゆくえに対するドライな視点と、それだけに留まらない骨太のヒューマンドラマが共存していて、その作者が、格闘技のマンガを手がけることは畑違いではないかと、多少の違和感をおぼえた。 しかし、そんなことはまったくの杞憂だった。遠

線でマンガを読む『あずま きよひこ』

ついこのあいだ、あずまきよひこの『よつばと!』14巻が発売されていたので、即購入。連載がはじまって15年というから驚きだ。休載期間もあったが、外国で「とーちゃん」に拾われて日本にやってきた幼児、よつばの微笑ましい日常を描いた作品を、あずまはまるで伝統工芸職人のような粘り強さで拵え続けている。 あずまの出世作は『あずまんが大王』という女子高校生の日常4コママンガ。この作品では、高校生活の3年間と実際の連載の期間をリンクさせていた。現実の1年分の連載にあわせて登場人物が進級し、

線でマンガを読む『大橋裕之』

「ナマケモノ」という生き物がいる。人間によってなんとも侮辱的な名前をつけられた動物だ。確かに、ふだんは木にぶら下がって怠けているように見えないこともない。しかし、彼にだって、本気を出すときがあるのだ。繁殖期を迎えると、オスは自分の島を出て、海を泳いでメスを探しに行くのである。ギャップというやつの効果は絶大で、木の枝にぶらぶらしているナマケモノが、このときばかりはと、命がけで泳ぐ姿に心を打たれる。 大橋裕之というマンガ家がいる。彼の作品では、貧乏な若者や、スクールカーストの真

線でマンガを読む『中村明日美子 後編』

マンガを読むさい、私たちは、無意識のうちにそこに描かれているものを「絵」と「コマ」に分け、前者がマンガの"中身"で、後者はその内容を伝達するための"容器"のようなものと考えている。そういうルールが刷り込まれているからだ。しかし、そのルールをいちど忘れてみたとき、両者に何らかの違いはあるだろうか。 乾パンなどでつくった「食べられる容器」というものがある。なかに入っている料理を食べたのち、それ自身も食べてしまえるような器。マンガの絵とコマの関係も、じつはこれに近いのではないか。

線でマンガを読む『中村明日美子 前編』

フランスの映画監督、ジェルメール・デュラックは、「絵画の素材が色であり、音楽の素材が音であるなら、映画の素材は運動である」と述べた。それに倣えば、マンガの素材は<線>だ。そして面白いことに、マンガにおいては、人物や物体、風景などといった、描かれるもの(絵)と、それらを異なる時間、空間の中に配置するもの(コマ)が、ともに線で成り立っている。画面に描かれている正方形の線が、「絵」なのか、あるいは「コマ」なのかを決定するのは、書き手と読み手の暗黙の了解に基づく。 たとえば上記のよ

線でマンガを読む『大島弓子』

前回の当コラムにて、手塚治虫がコマの枠線や絵のレイアウトを用い、巧みな視線誘導で、ドラマチックで読みやすい画面を設計したことに触れた。 (『火の鳥 生命編』手塚治虫 ※読者の視線の動きを緑線で図示した) いま、私は「設計」という言葉をつかったが、理知的で教養豊かな手塚は、その明晰な頭脳でもって、まさに建築の構造設計のようにマンガを組み上げていったのだと思われる。だから、手塚マンガの技法は人に説明しやすい。「この部分が視線誘導でこっちに行って…」という理屈を、言語化すること

線でマンガを読む『再び 手塚治虫』

たとえば、現代のマンガと、絵本の違いはなんだろうか。すぐに頭に浮かぶのは、絵が「コマ」と呼ばれる枠線によって仕切られている、ということ。日本のマンガは基本的に右上から左下のコマへと読んでゆく進めてゆく規則になっていて、それに伴って時間の経過や場所の転換が起こる。つまり物語が進む。 絵本の場合は物語を進めるために、ページをめくる必要がある。それはマンガも同じことだが、マンガの場合、コマによって絵を仕切ることで、ひとつのページのなかでも物語を進行させることができる。 (※ただ