マンガの中の少女マンガ/家(1):きら『少女漫画のせいだからっ』
昨年のことだが、マンガの批評や研究に興味のある人たちのなかで、以下のツイートがちょっとした話題になった。
なんで少女漫画の批評は少年漫画批評より少ないの? なんで批評されやすい文学や映画の主人公って男性のほうが多いの?
— 三宅香帆 (@m3_myk) November 23, 2021
私はもっと女性コンテンツ批評が読みたいんですけど!
というオタクの葛藤をぶつけた本が出ました、『女の子の謎を解く』といいます、電子書籍もあるよhttps://t.co/noC4SnYSBT pic.twitter.com/RBWy81p4UM
問題となったのは「なんで少女漫画の批評は少年漫画批評より少ないの?」という部分だ。
その歴史の中で少女マンガがいかに注目を浴び、いかに多くの少女マンガ論が書かれてきたか、そしてそれがどれほどの影響力をもってきたか、マンガの批評や研究について多少の興味があればわかっていて当然のことである。一方で「少年漫画批評」はそれほど多くない。少なくとも書名などでそのように銘打たれたものは非常に少ないといってよく、「少女マンガ」「少女漫画」について書かれた本と比べれば、その差は歴然である。
したがって「少女漫画批評は少年漫画批評より少ない」という前提については、疑問を抱かざるをえない。実際のところ『女の子の謎を解く』でも橋本治をはじめとして先行する「少女漫画批評」は参照されているので、三宅は少女マンガ批評の蓄積を無視しているわけではない。なのに、なんでまたこんな乱暴なことを言ってしまうのか、と思う。
しかし、これがやっかいな話なのだが、「少女マンガの方が少年マンガより論じられているのだ」と断じてしまうのも、また一面的な話なのである。問題は、少女マンガについて論じたものの方が、少年マンガについて論じたものよりも”一見すると”多いことにある。どういうことか。
ひとまず、当該のツイートに反応した私自身のツイートを挙げておく。
「なんで少女漫画の批評は少年漫画批評より少ないの?」というのは、強い違和感を感じさせる表現で、公刊された書籍や論文としては、「少年マンガ」を正面切って論じたものより、「少女マンガ」を論じたものの方がはるかに多いです。というよりも「少年マンガ論」を銘打ったものはあまりにもすくない。
— H.イワシタWEEN KILLS (@iwa_jose) November 24, 2021
近年出た本で「少年マンガ論」と銘打って刊行されたものとしては『熱血シュークリーム 橋本治少年マンガ読本』がありますが、もとになった『熱血シュークリーム(上)』(1982)には萩尾望都論が収録されています。
— H.イワシタWEEN KILLS (@iwa_jose) November 24, 2021
ただし、ここにはジェンダーの非対称性があるのも事実で、少年マンガや青年マンガを論じたものは「マンガ論」として刊行されるが、少女マンガを論じたものは「少女マンガ論」として出される。有標化されてしまう、ということがある。
— H.イワシタWEEN KILLS (@iwa_jose) November 24, 2021
「マンガ家」の話になるとより極端で、「少女マンガ家」をタイトルに含む本はたくさんあるが、「少年マンガ家」をタイトルに含む本はほとんどない。あるいは「少女マンガの描き方」はあっても、「少年マンガの描き方」はほとんどない。
— H.イワシタWEEN KILLS (@iwa_jose) November 24, 2021
単純に「少女マンガの方が少年マンガより論じられている」という話にしてしまうと、これはこれでまずいのでいちおう言っておきます。
— H.イワシタWEEN KILLS (@iwa_jose) November 24, 2021
最近のトピックだと『日本短篇漫画傑作集』の選者に女性がいないという指摘がいつの間にか少女マンガが収録されていないという話にスライドしていった、という件にもつながる話だと思います。
— H.イワシタWEEN KILLS (@iwa_jose) November 24, 2021
要するに、「少女マンガ」というジャンルはよくもわるくもラベルとして強調されるのに対し、「少年マンガ」はそうではないということだ。たとえば、昨年、ちくま文庫から刊行された「石ノ森章太郎コレクション」の各巻のサブタイトルを見てみると「少女マンガ傑作選」「ファンタジー傑作選」「SF傑作選」となっている。少年マンガとして発表された作品はそのことでひとくくりにされないが、少女マンガとして発表された作品はそのことでひとくくりにされてしまうのである。
もちろん、石ノ森のキャリアにとって少女マンガでの仕事は重要であり、その意味で「少女マンガ」というくくりに着目することは不思議ではない。私自身、石ノ森の少女雑誌における仕事については『生誕80周年記念読本 完全解析! 石ノ森章太郎』(宝島社)という本に、「ショーアップされた実験室〜少女マンガ時代〜 「少女クラブ」発表作品」という文章を書いていたりする。
ともあれ、わかりやすさ重視でおおづかみにまとめてしまえば、少女マンガは少女マンガであるというだけで色メガネで見られやすく、だからこそひんぱんに取り上げて論じられてきたと言える。
では、その”色メガネ”はいったいどんな色やかたちをしているのだろうか。もちろん、その色やかたちは時代によっても変化しているはずだし、ひとによってちょっとずつ違っていたりもするだろう。とはいえ、「少女マンガ」や「少女マンガ家」がどのように語られているのかを見てみれば、多少はその輪郭をつかめるのではないか。
というわけで、実はここまでは前置きと寄り道で、ここからが本題。「少女マンガ」や「少女マンガ家」がでてくるマンガについて、ちょくちょくまとめていこうという目論見で、これを書いているのである。
それにしても、少女マンガ家が出てくるマンガはかなりたくさんあり、中でも「少女マンガだがその正体は実は男!」モノなどは興味深いのだが、まずは「少女漫画(マンガ)」あるいは「少女漫画(マンガ)家」ということばをタイトルに含む作品をピックアップしていきたい。
今回は、きら『少女漫画のせいだからっ』(集英社)全4巻である。
『まっすぐにいこう。』のヒットで知られるきらが、2019年から2020年にかけて集英社「オフィス・ユー」で連載していた作品で、ひとまず「マンガ家もの」と言ってしまっていいだろう。
主人公のタムコは当年とって30歳。以前はOLをしていたが、数年前からは夢をかなえてマンガ家として生活を続けている。
自分では恋愛マンガを描きながらも、「マンガのような恋愛」への憧れをこじらせたまま現実では恋愛経験ゼロのタムコ。しかも、そのことを誰にも言えないまま、高校時代からの親友二人の前ですら「年相応にそれなりの経験をしている」フリをしているのだった。
タムコと親友の沙耶と美衣子は高校時代そろって同じ少女マンガ、その名も『ハイスクール ダイアリーズ』に夢中で、作中に登場する三人のイケメンにそれぞれ熱を上げていた。独身の沙耶とは相変わらずだが、彼女の結婚式をマンガでネタにしてしまったことをきっかけに美衣子とは疎遠になってしまっていたタムコ。しかしあろうことか、その美衣子がタムコの担当編集になってしまう。さて、どうなってしまうのか…というところで、タムコの職場に新しいアシスタントが訪れるのだが、なんとその姿はタムコ憧れの二次元イケメン・恭太郎のイメージそのままの若者だったのだ。
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