マンガの中の少女マンガ/家(3):刑部真芯『少女まんが家の恋』


 
『週刊朝日』2003年10月17日号に「レイプ、近親相姦… 小学生まで読んでる少女マンガの凄い中身」というかなり露骨なタイトルの記事がある。
 「過激なセックスシーンを描いた「H系少女漫画」がティーンに大人気」と報じるこの記事で「少女漫画H路線の先頭をひた走る」雑誌として名指しされているのが小学館の「少女コミック(現・Sho-Comi)」と「少女コミックCheese!(現・Cheese!)」だ。
 今回、紹介する『少女まんが家の恋』(小学館、2006)の作者・刑部真芯は「Cheese!」で『禁断』シリーズなどの、きわめて過激な内容の作品を多く発表し活躍した同誌の「少女漫画H路線」の立役者にひとりといっていいだろう。
 今回、久しぶりに『禁断〜秘密の花園〜』を読んでみたのだが、身寄りのない幼い少女に一目惚れして保護者となり暴力的なセックスを繰り返す形で愛情表現してくる男の姿にしばし呆然としてしまった。
 自分はそれを素直に愉しむ感性に乏しいのだが、こうした”不器用な愛情表現”や独占欲をみせる美男子もある種のロマンなのだろうと思う。
 
 『少女まんが家の恋』も「Cheese!」に2004年から2005年にかけて掲載された作品であり、全4話のうちにはベッドシーンもあるが、エロティックなムードはありつつもはるかに”健全”といえる。しかし、相手役の男が独占欲にまみれた乱暴な愛情表現に頼りがちなタイプなのは同様である。

 主人公は少女マンガ家の花小路乙女。彼の担当編集は「東大卒かつ/オックスフォード/院卒」で、しかも「顔良し 頭良し/しかも大金持ち」な「超デキる編集」、その名も「京極王子」だ(p.10)。ちなみに、ここで列挙したスペックは京極自身が述べたもので、しかもそんなハイスペの自分が「担当してやってんのに」と黒丸で強調しつつ言ってのける。
 傲慢な敏腕編集者である京極は花小路のネームを「カス」だとけなすは仕事に集中させるために交際相手と強引にわかれさせるはのやりたい放題なのだが、これももちろん”不器用な愛情表現”と強い独占欲のなせる業。素直に口にできないが京極は花小路の才能、そして彼女自身に実はすっかり惚れ込んでおり、その才能を開花させたいがばかりにアンケート1位を取るように迫り、「でなきゃ捨てるぞ」などと口走ったりする。編集が担当作家にいう言葉としてはいかがなものか。
 ごく個人的にはこういう”不器用だが一途な愛情表現”は本当に無理!なのだが、ポイントは担当編集者と少女マンガ家の関係が恋愛関係へと重なり合っていること、そして現実の恋愛経験がまたも創作と直結していることだ。
 最初のエピソード「花小路乙女の場合」では、京極にときめいてしまった花小路が、その気持ちのままにネームを仕上げてしまう。それを読んで花小路が抱く自分への恋心にめざとく気づいた京極は、公私混同を避け一線を引くために担当を別のものへと譲る。
 もちろん、こうした一方的な配慮はすれ違いを生み、しかしそのすれ違いがふたりが互いの気持ちを確かめ合うためのトリガーになる。
 
 一方的な配慮によるすれ違いを経て愛情を確認しあう、というパターンは他のエピソードでも繰り返されるもので、第二話では、自分にもそうしているように、他のマンガ家にもキャラクターの心理を理解するための手助けとしてキスをしてみせているのではないか。花小路がそんな疑心暗鬼に陥ったりする。キスをする際にも、天才編集の俺様がネームに詰まったお前に指南してやるぞといわんばかりの余裕綽々な態度を装うからそんなことになる。そんな無意味な照れ隠しはほどほどにしてほしいが、同時にぜったいにほどほどにしないでちゃんとすれ違ってほしい。読者としてはそういう裏腹な気持ちにならざるを得ない。
 なにはともあれ、ここでも実体験が創作での恋愛描写に貢献するというおなじみの図式は健在である。

 ところで、『キスさえ知らない少女漫画家』を紹介した際に、「少女マンガ家」ということばにこめられた二重のイメージについて触れたが、この作品ではそのことがより際立っているようだ。
 つまり、「少女マンガ/家=少女マンガの描き手としてのマンガ家」のみならず「少女/マンガ家=愛の対象としての少女であるマンガ家」というイメージが強く打ち出されているのである。
 たとえば、表紙ではタイトルに「他の誰でもない、王子の手で…もっと大きく咲きたいの…。」というテキストが添えられている。ここでは、少女マンガ家としての開花は、男性に愛されて女性として花開くことといささか露骨に重ね合わされており、本編でもふたりがついに肉体的に結ばれる際に王子は花小路のことを「俺のまんが家」と呼んだりもする。
 そもそも、編集者とマンガ家のファーストネームが「王子」と「乙女」なのもやりすぎといえばやりすぎである。もちろん、そうしたやりすぎこそがこうしたロマンスの要諦だとただちに申し添えておかねばならないが、ともあれ、「少女マンガ家」には、しばしば「少女マンガ的な少女」(それは時に乙女と呼ばれたりする)のイメージが重ね合わされる。それがフィクションにある限りにおいてはかまわないが、現実の少女マンガ家にそうした「乙女の魂」が求められた場合、それは時に問題含みとなるだろう。
 そうしたトピックについても、そのうち書く機会があるかもしれない。
 
 
 

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