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【新発田市月岡】合同会社ミライズ、穴澤さまへのインタビュー編

ーー合同会社ミライズ

 月岡温泉は新潟県内で人気の温泉地です。大正4年、石油を採掘中に温泉が湧きだしたことから始まりました。また、硫黄含有量が多く、美肌の効果があるとされています。かつては「新潟の奥座敷」と呼ばれ年間100万人ほどの宿泊客が訪れる場所でした。

 しかし、バブルの崩壊後、旅行の需要の変化によって、団体宿泊客が減少してしまいました。また、大型旅館が飲食店やお土産店を設けることで、宿泊客を外に出さなくなり、空き店舗が増加する温泉街になりました。約50万人まで年間の宿泊客が減少しました。

 このような状況の中、2014年に、合同会社ミライズが設立しました。空き店舗を使い、賑わいのある温泉街にする取り組みを始めました。そして、1年に1店舗、空き店舗を活用し、新しい店舗を出すことを継続して行っています。

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ーー7年前の月岡

 ちょうど7年前ですね。美味しいお饅頭屋さんはあるのですが、それ以外のお土産の選択肢が少なかったです。
 他にもお土産あったらいいよねと話をみんなでしていたし、昔は『この旅館に泊まりにきたいから月岡のこの旅館に泊まりにこよう』という流れでしたが、今は『何々温泉に行きたいよね』と、温泉地を選んでから泊まる宿を選ぶという流れに変わりました。温泉地に魅力がないと私たち旅館の方にはお客さんが来ないので、みんなで温泉地を盛り上げていこうと感じました。

 やはり継続的に少しずつ変えていくには、みんなで会社を作って、長い目でやっていこうかなっていう話でしたので、反対する人は誰もいませんでした。

ーー名前の由来は「ミライ」へ「ライズ」

 ちょうどミライズを設立する時に、100年祭の実行委員の未来委員会っていう委員会で100年祭なにをするかと色々イベントを企画していて、その未来と、未来に向けて上昇していくライズを掛け合わせました。

ーー「ミライズ」の運営は旅館の経営者

 ミライズのメンバーは旅館の経営者とか若手の社長さんとか旅館の人達がメンバーです。未来委員会のメンバーが9人いますが、その人たちで出せる範囲で出そうと一律で出したので、他の商店さんに求めるとかはなかったです。最初は、地域の人というよりは旅館のメンバーで力を合わせてやっていいこうとなりました。その年は100年祭ということもあり、新発田市の予算とか観光協会の予算とか、結構いろいろ予算がありました。

 今は地域の人には、今は空き家を貸して頂いたり、駐車場少し迷惑をかけるなど、そういう形で協力はしてもらっています。

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ーーコンセプトは『歩きたくなる温泉街』

 最初は予算もあったので、1個蔵という日本酒にこだわったお土産屋さんを作りました。蔵は、新潟と言ったらやっぱり日本酒ということで、オープン当時からにぎわってました。新潟の全蔵元のお酒を用意しているので、『ここで全新潟のお酒を試飲できるなんて』っていう日本酒が好きな人が集まってくる感じで、とても喜んでもらえました。若い世代の女性のお客様が日本酒の飲み比べしていたことが本当に意外でした。

 やはり『歩きたくなる温泉街』にするためには店舗を毎年一つずつ増やすことで賑わいを生み出せると思いました。

 そして、お土産さんでただ手に取って買っていくというより、何かを体験したり、他の店でも試食するとより心に残っていただけると思いました。

ーー今年はチョコレートのお店をオープン

 お店は新潟のものにしています。お酒、こう麹、発酵食品、おせんべいや米粉など、新潟らしいものを提供していましたが、ここ数年ネタがなくなってきました。今はお客様の層が若くなってきたので、若い女性に喜ばれる新潟らしいものということでチョコレートにしました。今まではやっぱり和とかにこだわってきましたが、思い切って洋風にしました。

 女性のお客様はパッケージ大事なのでかわいらしいものや珍しいものを選んでます。チョコレートのお店は値段が高いですが、珍しい、可愛いものを置いておくと購入していただけます。

 お店にリスクはないです。家賃は私たちが払っているので、お店は商品を仕入れるだけです。私たちミライズのメンバーは旅館やってるので、結構スタッフに任せていています。

ーー月岡を訪れる世代は若者が増えてきた

 昔は60代、70代の団体のお客様がバスでやってきて、旅館から一歩も出ないで帰っていく時代でした。今は30代から40代で年齢層は若くなったと思います。若い人はミライズができてから3年目で週末にたくさんの人が歩くようになりました。

ーー「ミライズ」の今後

 私たちミライズがあるうちは、何店舗でも増やしたいです。徐々に空き店舗もなくなってきているので、今度は温泉街だけじゃなく周遊できるように裏の道とかもできたらいいと考えております。

ーー月岡から離れたかった時もありました

 私は長女だったので、ずっと親を見てきました。そのころは忙しい時代で、小学校から旅館に帰ってきて、ロビーでご飯食べたりして過ごしました。お休みの日に休めず、家族旅行も行けず、それが嫌でした。親も忙しいから、私に勉強しなさいとかも言われませんでした。自由にのほほんと生きてきて、高校も楽しく過ごしました。東京の大学に行きたいなって思ったんですけど、東京に行ったら戻ってこないだろうということで敬和学園大学ができたのでそこに進学しました。もし敬和学園大学がなかったらまた人生変わってたかもしれないです。

 就職も泉慶に入りたくなかったです。海外旅行とかが好きだったので語学留学を1年ぐらい行きました。泉慶に戻りたくなくて、求人を見たところ塾の先生があったので、塾で務めました。25歳を超えたぐらいで、戻ろうと思い、新潟市のホテルで働いて、そこからここに来ました。

ーー競争から共生の時代へ

 昔は旅館同士がライバルって感じで、本当につながりはなかったんです。しかし私たちの世代は、今、横のつながりがあって、困ったらシーツがなければシーツを貸したり、テーブルがなければテーブルを貸したりしています。そのあたりのコミュニケーションもすごく上手にとれていると本当に感じます。今は、困ってるとお互いに助け合ってやってます。

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ーーノベルジャムへの期待

 新潟の地方で暮らす若い作家と、都会で活動するプロのデザイナーさん達がオンラインで小説を創り上げていくなんて、とても斬新な企画ですね!
 地域の魅力(月岡温泉)を物語として多くの方に知っていただけたら嬉しいです。素敵な作品が出来るを事を期待しています。

参考記事

取材日:6月某日

取材=おぐら・かつやま・まつもとあつし 文=おぐら・ざわざわ 

撮影=中野裕貴

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