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20240127_日記について

最近、通勤途中に紙の本を読むようになった。会社が辺鄙なところにあるから電車の中は大抵同じ会社の人ばかりで、その中でプライベート用のスマホの画面を見るというのが嫌になってきたから。

2024年の1冊目の読書は多和田葉子『エクソフォニー』。大学時代に読んだのを改めて読み直した。

多和田葉子の小説はどうも私に合っていないようで、でもその反面エッセイは面白く感じる。今は2冊目として『言葉と歩く日記』を読んでいてもうすぐ読み終わるところ。そろそろ新しいエッセイ集が出たりしないかと密かに期待してる。ひとつひとつが短いので短い通勤時間(15分も電車に乗っていない)で読むのにちょうど良い。
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多和田葉子はドイツ在住でドイツ語と日本語の両方で書く人ということもあって、この両者の言語をそれぞれ見つめて、分解して、比べてみたりする文章が多い。

「上手く説明できないけれどこの言い方はおかしい、この方がいい」という感覚をドイツ語ではよくSprachgehühlと呼ぶ。日本語なら「言語感覚」と言ったところか。しかし、言語について考える時、感覚とか感情という概念を使うのは適切なのか疑わしい。言語操作の過程があまりにも複雑なため、それを分析して説明するのが面倒くさくて、「それは言葉のセンスだから説明できない」と言ってしまうのではないか。特に母語の場合、自分がなぜある文章を変だと感じるのかをすぐ説明できない人が多い。

多和田葉子『言葉と歩く日記』「一月二十三日」より

二つ以上の言語の読み書きができると、言葉に対する「なぜ」が生まれる状態になりやすい傾向にあると思う。私の場合、日本語に対しては違和感をおぼえる土台(多和田葉子が言うところのドイツ語のSprachgehühl)が自分の中にある程度の強度を持って存在しているものの、ペルシア語や英語に対しては違和感をおぼえる土台の強度は軟弱だという自覚がある。たった今、日本語の土台はある程度の強度を持っていると書いたけれど、それももしかすると見誤っているだけかもしれない。自信がない。いずれにせよ、言葉を考える時間は相対的に増えるということは断言できる。

外国語を学ぶのは、実際に使うためだけではない。外国語を勉強したことがなければ、母語を外から眺めることが困難になり、言語について考えようとした時にそれがなかなかできない。鏡を使わないで自分の目を見ろ、と言われたようなものだ。

多和田葉子『言葉と歩く日記』「三月二日」より

(中身とは関係ないけど、多和田葉子は「時」は漢字で書くのに「こと」はひらがなで書くのが気になる。何かしらの信念があるのか。)

読み進めていると片岡義男『言葉の人生』が積読状態になっているのを思い出して、本棚から取り出したい気持ちに駆られた。言葉(この本では特に日本語と英語)についてのエッセイ集。そしたら『言葉と歩く日記』にも片岡義男が出てきて嬉しい気持ちになった。こういうとき、つながるタイミングってあるときはあるよなあと思う。

なんとなく片岡義男の経歴について調べたら、自宅で読んでる途中(ハードカバーの本は自宅でのんびり読みたい)の荒川洋治『文学は実学である』で取り上げられていた田中小実昌の名前が出てきて、なんだかさらに妙につながっていく。『文学は実学である』は荒川洋治のエッセイ集。まずタイトルが毅然としていて良い。書評も多く収録されている。読んでみたい本が増える。そして彼の他の著作には『日記をつける』というのがあって、それはついこの間注文して今は届くのを待っているところ。

『文学は実学である』では、田中小実昌の『ポロポロ』が紹介されていて、それがとても良い文章だったので文庫本を買おうか迷っている。こんなふうに書かれると気になってしまう。

田中小実昌といえばやはり『ポロポロ』(中公文庫)だと思う。この短編集の初版は一九七九年に出た。鮮烈だった。その一部となる短編が発表されたとき、ぼくは最初の文芸時評をある地方紙ではじめたばかりだったが、それでもいままでに見たことのないような文章の世界があると思った。電気がぱっとついた感じだった。

荒川洋治『文学は実学である』「ポロポロの人」より

そして今度は田中小実昌について調べていたら、年末に連れられて行ったゴールデン街のバー、ザ・オープン・ブックのオーナーが彼の孫だと知った(田中小実昌自身も、職を転々としていた頃にバーテンダーをしていたらしい)。知らずにホットレモネードを頼んで飲んでいた私。たしかに店内に所狭しと古本が収納されていて、そう言われるとそんな雰囲気もする。連れて行った張本人に話したら「そうだよ。あれ?言ってなかったっけ?」と言われた。写真を撮ったかなと思ってカメラロールを探してみたけどなかった。私は飲食店に行って写真を撮るときと撮らないときとがある。

脱線してしまった。日記について書きたかったのに。他人の日記でいうと他にも、歌人の瀬戸夏子の日記も去年読んでとても面白かったのを覚えてる。

嶽本野ばらに限らず、一度でも自分の人生を救ってもらった、そういう本を書いた作家のことを、どんな犯罪を犯したら嫌いになれるだろうか、と考えてみる。考えてみたが、たとえ何をしても心底嫌いになることはできないと思った。ショックを受けるかもしれない。幻滅や反発や軽蔑、それは起こりうるかもしれない。けれど救ってもらった人生込みで、その人を嫌いになることはきっとできない。(略)

瀬戸夏子『2022年の夏と秋』「6/18」より

瀬戸夏子の歌で好きな歌もここでいくつか引用しておきたい。彼女の歌は正直なところその意を汲むことはむずかしく感じるものが多いけれど、必ずしも歌意を汲むことが歌を読む目的ではないから、歌を読むことで自分の頭の中に浮かぶ風景を楽しんでいる。

恋よりももっと次第に飢えていくきみはどんな遺書より素敵だ

瀬戸夏子『かわいい海とかわいくない海 end.』「生まれかわったら昭和になりたい」より

きっときみから花の香りがしてくるだろう新幹線を滅すころに

同上 「東京という死の第二ボタン」より

蜜蜂のからだをそっと拭うころきっと大切なリードボーカル

同上 「純粋な勝負は存在しない」より

こういう、すんなり消化されない感じがたまらなく心地よい。何度も唱えていると、七五調も相まって何かの呪文のようにも思われる。


今年のささやかな目標の一つとして、もう少し日記を書きたい。紙の日記を。インターネットには、このnoteだったり、tumblr、threads、Googleドキュメントなどなどばらばらに私の日記が存在しているけど、「ペンで書く」という行為をもっとやりたくて。去年の夏に本屋でスキマ日記なる日記帳を買ったものの、あまり書き進められてない。

スキマ日記

今見てみたら廃盤になってしまっている。サイズ感がちょうど良くてお気に入り。

何年か前に、she isで燈里さん(instagram/@akaricielo)がご自身の日記について記事を書かれていて、当時読んで印象深かったのも思い出される。

私は自分の生活を選択できる覚悟が欲しい。過去に浸ったり後悔したり、他人を憎んだり妬んだり、都合の良い解釈に固執したり、そういう自分の甘えによって生活を停滞させたくない。野心を持って闘い、何とかして進みたい、前に。前に。前に。だから忘れるためにスケジュール帳に生活を残しています。書くことで初めて気付ける自分の欲望や感情。書くことで忘れ過去にできる記憶。「書くことは排泄と同じ」だとルームメイトは言います。矛盾と葛藤を抱えながらも、怒りに振り回されず自暴自棄にならず、明晰な感性と血の通った感情を尊重する。スケジュール帳はそれを後押しし、闘いの過程を記録します。

燈里「私の生活証明 the proof of my life」

抜け落ちていく自分の記憶を、面白いと思ったものに限らず書き留めたい。今からでも遅くない。詳らかに書けなくても、分量がなくても構わない。単調な日々を送っていたとしても全く同じ日はないし、全く同じことしか考えない日もない。書くと覚えるし、書くと忘れるし、書くと思い出せる。これらは同時に成立する(と私は思う)から。

YSさんは日記をつけていないので、そういうちょっとした面白い出来事や意外な人との出会いなどもどんどん忘れられていってしまうのが残念だ、と言った。確かに、そういうごく小さな出来事のおかげで、その日が人生に一度しかない日になる。

多和田葉子『言葉と歩く日記』「一月二十九日」より

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