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パラリンピックが終わりました。

パラリンピックが終わったので、感想です。

今まで、ここまで一生懸命パラリンピックを見たことはなかったので、想像以上に楽しめたこと自体に自分でも驚いてます。印象に残った競技は山ほどあってとても書ききれないのですが、やっぱり競技としては走り幅跳び、車いすバスケ、バドミントン。印象に残った選手は男子100m同着の二人、ボッチャの杉村選手、車いすラグビーのフランスの3番、車いすテニスの国枝選手。いやもう凄いを超えて凄まじかったです。

当然僕はパラリンピックをやって良かったと思っているわけですが、なんで「やって良かった」と思えるのかはきちんと書き残しておくべきかなと思って今キーボード叩いてます。社会全体を眺めてやって良かったとか悪かったとかって、どうやったって評価できないと思います。例えばマラソンで沿道で人が密になってるとか騒いでいる方いるし、オリパラのおかげで世の中の気持ちが緩んだとかいう意見もありますが、僕はオリパラが無ければ無いで出歩く人は出歩くし、酒飲む人は飲むしで、結果は変わらなかっただろうと思います。そりゃ影響はなかったとは言わないけど、僕みたいにむしろテレビに噛り付きで逆に外に出る機会が抑制された人だっているわけです。だからそこを議論したところで仕方ないと思います。もし客観的な事実があるとすれば、大会関係者の中での蔓延は無かったという点でこれは評価されるべきだと思います。

一方で、2週間パラリンピックを見てきて自分にどんな影響があったかについてはきちんと書いておくべきかなと思います。これはつまり、書くに値する影響が自分の中にあったということです。

誤解を恐れず書きます。2週間パラリンピックを見続けた僕の変化は、
「障がい者を見ることに僕の目が慣れた」
ということです。

表現として適切かどうかはわかりません。気分を害された方がいれば、申し訳ありませんがもう少し我慢してお読みいただければと思います。

日本勢のメダル1号は競泳の山田美幸選手でした。僕にとっては「まだ目が慣れなかった」パラリンピック。水泳は補装具をつけず水着を着用しているだけですから、体型そのままの姿が映像に映し出されます。僕はその映像を見ながらどこかで正視を拒む自分がいることに気が付きました。

うまく書けないので他人の言葉を引用させていただきます。あるラジオ番組でふかわりょうさんが、コロナ禍で内心五輪開催に賛成できない自分が、競技を見て「上手く感動できるかわからない」という表現をされていましたが、まさにその感覚で、山田選手の活躍を見た私は「上手く感動」できなかったのです。山田選手には大変失礼な物言いになってしまいますが、この時感じた気持ちは今の私の気持ちを語るうえで避けることができません。山田選手、申し訳ありません。

で、話を戻しますが、山田選手の活躍を皮切りに日本の選手の頑張りもあって大会は大いに盛り上がります。僕も競技にどんどんと引き込まれていくわけですが、日程の中盤あたりから、僕は普通に感動できるようになっていきました。

僕は普段普通に生活している限り、まず滅多に障がい者と接する機会がありません。なので、たまに自分が乗っている電車の中に障がいをお持ちの方が乗車されてきたりすると、別にそれが日常当たり前のことと理解しつつも心のどこかを固くしてしまっていることを、僕は否定できません。恥ずかしい話ですがこれは事実で、障がいに限らずゴツい黒人さんとかでも同じような感じになります。それはすなわち僕はどこかでそれを「非日常的な出来事」として認識してしまっているのだと思います。結局開始当初のパラリンピック中継を見ていてもその感覚が多少なりともあったわけですが、日が経つにつれてその感覚がどんどん解きほぐされていくのを感じました。それをハッキリと認識したのが走り幅跳びを見ている時でした。両足義足で走る姿、跳躍する姿を見ても何の違和感もない、普段障がい者と向かい合った時の心のコリのようなものを全く感じていない自分に驚きました。

もちろんそれは義足を付けているとはいえ、立位だし、上半身をうつす限り健常者のそれと変わらないからなのかとも思ったのですが、極めて重度の障がいを持つボッチャの選手に対してもやっぱり変わりませんでした。この変化は何か。それはパラスポーツを見続けることによる良い意味での「慣れ」としか表現できません。

テレビを見て色々なタレントさんや、偉い人たちが「共生を考える機会に」とか「バリアフリーな社会を」とか難しいこと言ってますが、僕はこの「慣れ」の感覚を持てたことが最大の収穫かもしれません。私たち健常者がなにか社会の仕組みを作ろうとするときに「あらゆる障がいに対する不自由さを一つ一つ想像し、考慮する」というのはすごくパワーのいる作業だと思うのですが、そこをもっとシンプルにパっとパラアスリートの顔が浮かんで「これだと彼らにはちょっと不便かもしれないな」と自然に気が付くほうがいい。今の僕はそんな考え方ができそうな気がします。

でも、この感覚が長続きするとは言い切れない。多分時間が経てば忘れてしまいます。パラリンピックを4年に一度開く意味は、今年コロナ禍の中で決行する意味は、そこにこそあるのではないかと僕は思います。

最後にもう一人取り上げたい人がいます。今回NHKが選んだ3名のパラリンピックリポーターはいずれも素晴らしかったのですが、中でも陸上の解説をされた後藤佑季さんはとにかくその言葉の端々から膨大な取材を重ねていたことがよくわかって、コメントの内容の正確さ、言葉の選び方、完璧でした。そしてご本人のお人柄だと思いますが、とことん選手に寄り添った視点も暖かく、彼女抜きにしてここまでパラリンピックは楽しめなかったと思います。特に印象的だったのが、後藤さんご自身がVTRを見ながら嵐の「カイト」を口ずさんでいたことを指摘された時に「わたし耳に障がいがあるので音痴なんですけどね…」と照れ笑いを浮かべながら謙遜された。それが普通に言える後藤さんは素敵だったし、そのエピソードに対して何の引っ掛かりも無くほほえましい出来事として受けとめられた自分にもうれしくなりました。彼女の素晴らしいお仕事に心からの賛辞を贈りたいと思います。

というわけで、とても楽しめたオリパラでした。
皆さんお疲れ様でした。

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