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浮気をするという事に関して神は不寛容であるという話。

一度うまく行くと色んなものに手を出してみたくなるというものが人間だと思うのです。 目の前の可能性が開けて見え、何でも出来るような気にもなります。  それは今までやりたくても出来なかった事への挑戦を後押しするきっかけにもなることでしょう。 ただそれは単にうまく行っているように見える流れをいたずらに分散させようとしている愚かしい行為に他ならないのだと。 ただその流れというものを定量化しておきたいという下心や浮わついた好奇心が実態の伴わない流れをなかったものへと結果的に導い

芸のない善行はおそらく好ましくないのだという話。。。

おそらくそれは神にとって好ましい行為ではないのだということ。 差し当たり逆説的に考えるとすると、例えば犯罪。これは世の中から無くなることはありません。何故ならば、それを他ならぬ神が容認しているためです。 犯罪を冒すと多くの場合、裁かれますよね。 しかし裁くのは神ではなく、人間なのです。 犯罪を冒したものが急に病に侵されるなんて話はあまり聞きません。 神は明らかにこれを許しています。 そもそもの話、食物連鎖等というシステムを作ったのもまた神なのです。 始めから食って

破滅したくないという不安を解消するために破滅することを選んでしまう、下意識。

『下意識』とは自我の延長上にある、抑圧した意識のことを言います。恐らく感覚的には『無意識』に当たるものですが、『無意識』は自己を越えた領域に当たるので実際には違うということです。無意識にやってしまうといったことは厳密には下意識によるものということです。 我々は目標を達成するために色んな条件を設定するはずなのです。○○かつ△△といった具合に。結果を導くためには手段がありますが、その手段は自分が出来る現実的なラインへと落とし込むのが一般的です。 ただそうこうしているうちに向き

天もまた、私に執着をしている。

一体何を期待されているのかが分からない。 こっちは手放すもの手放しているわけだが。 高みの見物決め込んで、さぞ気持ちがいいことでしょう。 何度も何度も言いますがこちらにはこちらのやり方があるのです。 それを受け入れられないのなら、私である必要はありませんよね。 むしろ執着されているのはそちらの方ではありませんか。 そんな気に入らないのなら…さっさと殺したらどうでしょう?

人の救いとなりたいという思想は心からの欲求であるのか。

天からの介入が多い今日この頃です。 自分はそうしたいにも関わらず本当のお前はそうじゃないと分かったように全て台無しにされてしまうのです。 もう自分の人生を生きることは出来ないのだと思います。 この人生に未練が無さすぎるので死ぬのが楽しみです。 ただ安らかに死にたいという欲求があるので、その時を心待にしております。 結局のところ、自分の意志などというものは全てがある特定の段階のためのまやかしでしかなく誘導にすぎないのかもしれない。 正直何が何だか分からない。 天に

グレーゾーンに見る責任の所在。。。

世の中、公に許可をすることに都合の悪さがあることってありますよね。 その一つに所謂グレーゾーンにあたることがあると思うのですが。 なぜそのようなものが存在してしまうのかは、許可を取るという行為の本質を考えると分かりやすいかもしれません。 この行為そのものは、責任感ある行動ではありますよね。ちゃんと確認をとることで透明性を担保しようというわけですから。ただ、その行為の裏側に存在するのは責任の委託に他ならないと言えなくもないわけです。 つまり、許可を取る行為は、責任感をも

自分らしさって一体何なのだろうか。

欲望のままに生きることは自分らしさと言えるのでしょうか。恐らく違っていて、そうしていると現実的な側面或いは物質的な理由などから問いかけがやってくることによって本当は何をやるべきであるかに気づかされるのです。 では、欲を抑えて生きることは自分らしさと言えるのでしょうか。それもまた恐らく違っていて、破滅を畏れ欲を抑えようとする意識はやがて、無意識との分断を生んでしまいます。そうしているとその意識を取っ払おうとする力が働き、自分の身の回りにあらゆる誘惑がやってこようとします。そし

やるべきことに躊躇してやらなくていいことを躊躇せずにやってしまうアレ。。

よくよく考えてみると、不思議だなあと思って。 やるべきことは何をどれだけするかああだこうだと慎重に考えるのに、ならなくてもいいようなどうでもいいことには、考慮もろくに挟まず、手を出していることに。 対価ってとても大事なことですよね。だから、自分の努力や時間が無駄になることを恐れてしまう。で、手近にある自分の欲を確実に満たしてくれる方へと気づくと流れている。 それが一概にどうということではなくとも、同じように考慮すべきだと思ったんです。無意識的についやってしまう前にもその

自分から幸せを奪っていくのはいつだって自分だったのだと。

どんなに頑張ってもどうしてうまくいかないんだろうと思って、自分を変えてくれるような流れを待ち望んで。いざ幸せが不意に現れたときに心の準備が出来ていなくて、或いはそれが幸せそのものであると気がつくことができなくて。 きっと誰しもあるはずなんです、理想の形というものが、理想のタイミングというものが。 でもそんなものは幸せになるための枷でしかなかったのです。 こうでこういう形でなければならないという思考にいつまでも囚われているからそれが良さそうに見えたとしても目の前の状況を何

「スランプ」は影響ベースで捉えることにより緩やかにやってくる

なんか調子よかったのにいつの間にか調子悪いことになっていって調子よかった以前の状態にすら戻るのが難しい状態に陥ることって結構あるんですよね。 なので、色々試してどうなると調子が悪くなるのかとか、そういう兆候みたいなものを記録して自分で実験していたわけなのですが。 周りに影響されてだとか、こういう食べ物食べがちだなだとか、原因は色々あったわけですが、一番に影響が顕著だと思ったことはそもそもの話、影響があまりないから大丈夫というマインドそのものにあったということです。 実際

「向き合い」の本質は「死」を常に意識するということ。

自分が何のために生きているのかも忘れて気持ちいいことに浸っていると気持ちいいのに自己嫌悪に陥るのは何故なのでしょうね。 そういう生活をしているとふいに死にたくなったりするわけですが。きっと不意にやってくる死にたくなる感情は「死」から目を背けることに対するより戻しなのかもしれないなって。 いつ死ぬか分からない状況ならそういうことを思うことはあまりないのかもしれない。或いは身の回りに存在するものが当然にあるわけでないと強く自覚出来ていたのなら。 だから人生と向き合うことの本

何を言っても通じない人とはつまり、微小区間における直線の傾きを是としているという話。。。

安易に表現してしまえば世界観の狭い人(それ自体が一概に悪いとも限らないが)、或いは思い込みの激しいと思われる人。 もっと簡単に言えば生きずらそうな人。まさしく、以前の自分にとってあまりにも当てはまることであり、今の自分にとっても多少耳の痛い話です。 周りを受け入れることに対してすごく抵抗があったんですね。それは、その当時からすれば自分らしさの喪失と同義であったから。 その程度で崩れてしまう自己同一性に一体何の価値があるのかと周りから見てみれば明らかなのだと思います。まあ

オカルトやスピリチュアルに対する本能的忌避感のワケ。。。

スピリチュアル世界に対し真に向き合うことはそれ即ち、物質世界との決別を一度はかる必要があるために、人はそこを見ないようにするものです。 たとえ説明のつかない現象──表面的にという意味において──が起きたとしても、それを単に偶然起きたことであると片付けてしまう。 とは言え一度は偶然と片付けた現象が状況を変えて同じように何度も身に降りかかるようでは、そこから何かを気づかざるを得ないのです。 しかしながら、一度そういった視点を持てば、今まで向き合わなかったそれらが、自分の目の

「自己実現」には「承認欲求」が欠かせないという話。。。

これまでずっと周りに合わせて生きてきました。 そんなことをしても得なことは本当になくて。 それで好き勝手に生きている人の方が幸せそうなのを見て理不尽な思いをした過去もありました。 対人関係だと合わせることによる弊害はかなり顕著です。 例えば気になる人がいるとして。気に入られようと合わせるとしますよね。 それがうまくいっているときはいいのですが、問題は相手の「何か」が変わったときです。 それまで懸命に合わせていた自分が合わなくなってしまうんですよね。 これほど徒労