ありふれた私は文章を書く
noteのトップページや、急上昇の項目を見ていると「私もそう思う!」と共感する記事をよく見かける。そのとき、ただそう思うだけなら楽なのに、私はどうしてか、「私はただの一般人なんだ」という寂しさに襲われる。
「お月さまは毎日違う形をしている!」と発見した子どもが大人に話すと「そうだよ」と当たり前のように返されるような感覚。これ以上の発見はないと思っていたのに、それは普通のことだよ、誰でも知っていることだよと諭されるときのように。きっと、自分が特別ではないと思った人は、いつの間にか表現を諦めてしまうんだろう。特別でないと、ありふれた自分に押し潰されそうになるから。
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プロタゴラスの「人間は万物の尺度である」という言葉を久々に聞いて、やっぱり私はただの人間なんだなぁ、この世界に生きる1人の人間であるだけなんだなぁ、と思う。「私が考えていることは、誰かも考えたことがあるんだ」と気付いたとき、特別じゃない自分が少し悲しかった。そして、そうやって悲しくなる一連の流れさえも、きっと今読んでいる人は体感したことがあるのではないだろうか。
ふと、プロタゴラスが生きていた時代は相対主義という考え自体が考えられないものだったのだろうと思いを巡らせた。実際プロタゴラスの考えは、ポリスの法を否定しうる思想であることから不敬神の罪で追放されたらしい。そんな紀元前から、何千年も後の現在、私が私の人生を生きながら自分の言葉で相対主義という考えにたどり着いたそのことが、なんだかとてもすごいことのように感じられる(そしてそれにたどりつける環境に生きていることに感謝しかない)。
プロタゴラスの言葉に共鳴している。そしてそれに共鳴しているのは、それを考えていたのは、私とプロタゴラスだけでもなく、かといって今読んでいる同じ気持ちを抱いている人だけでもなく、今生きていて表現できる人たちと歴史に言葉を残した人たち、そして伝えられることのなかった歴史に生きていた多くの人たちだ。ありふれた考えというのは、きっと、見ることも聞くことも触れることさえできない、けれど多くの人の中にあることは確実にわかる伝統なんじゃないかと思う。
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けれど、本当に、その発見はありふれたものなんだろうか。
誰もが違う環境で育ち、生きている。その人はそれぞれの感性を持って、生きている。私は、それがありえないほど尊いことのように思う。時に、その尊さが怖くなるくらいに。
きっとこのことも、ありふれているんだろう。みんな考える、通る道なんだろう。けれど、それを私が書かない理由には足りない。ありふれているからこそ、私は綴る。最初から特別なことなんて、誰も求めていない。ありふれたことを人が表現するからこそ、誰かにとっての特別になるんだと信じたい。
私は今日も、誰かが既に考えたことを書き表す。意味のないその行為が、とてつもなく美しく感じるのは、私だけだろうか。
Ps. 家に帰ってすぐ寝てしまい、金曜に更新できなかったため、今日投稿しました。
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