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二宮尊徳と久保田譲之助ー栃木県における報徳仕法と七博士建白事件

 2月24日に開催された鹿沼れきしカフェで2019年に行われた鹿沼まるごと博物館第5回企画展『二宮尊徳と久保田譲之助ー最後の仕法が拓いた未来ー』展の図録を頂戴しました。

 久保田譲之助(久保田譲)は但馬国豊岡藩(現在の兵庫県豊岡市)の出身ながら、日光神領で活動していた二宮尊徳の息子である二宮尊行の弟子となり、二宮尊行が相馬中村藩に退去するに際し、引田村(現在の鹿沼市)の仕法を継承しています。戊辰戦争により、一度は中断を余儀なくされるも、下野国知県事の鍋島道太郎(鍋島幹)に願い出て、報徳仕法による開拓を続け、栃木県の礎を築いた文部官僚にして政治家でした。

 明治36年(1903)には第一次桂内閣の文部大臣に就任するも、日露戦争講和条約に反対して対露強硬論を唱えた戸水寛人と東京帝国大学総長の山川健次郎を休職処分(七博士建白事件)にした責任を取って辞任するなど、大学の自治を考える上でも重要な人物です。長年の功績により、男爵となり、枢密顧問官などの要職を歴任しています。

 板荷村(現在の鹿沼市)では用水路(久保田堀)の整備を行ったことで、地元住民から崇敬を集め、久保田神社が創建されるなど、文字通りの意味で神様扱いされています。

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