本棚って下着かもしれない

少し前にツイッターで、「聴いている音楽、読んでいる本からは人間性がすべて透けて見える」対「聴いている音楽や読んでいる本で他人をはかる癖がある人は気持ち悪い」という意見の衝突を見かけた。

読む本、聞く音楽、見る映画でその人のすべてがわかると私自身は思わないけれど、何にその人の人間性が表れると思うかは各々の自由かなと思う。その趣味で人を判断する癖もまた、人に人間性の表出としてジャッジされ得る要素であると自覚しておいた方が、いろいろと上手くいく気はする。

私が相手の好きな本や音楽から読み取れると思うのは、その人の好みと、何を見て何を聞いてきたかという事実。それ以上でも以下でもない。でもその単なる事実の積み重ねが、今目の前にいるその人の目や頭の使い方をつくっている要素の一つであることは多分間違いがなくて、その意味ではわたしもそうしたサブカル趣味の要素を特別軽視はしていない。

そもそも透かし見たい他人の「人間性」って何だろう。その人が見せようとはしていない本性、というニュアンスかしら。

日常生活の文脈において、本性とか性格みたいな言葉で表される他人の性質って、バチッと定義が決まっていないから扱いが難しいよなと思う。どこまでいっても「今、自分の目にはその人がどう映るか」という、流動する表面の瞬間的な状態の切り取りでしかない気がしてしまう。自分に対して礼を尽くして接してくれた人格者にしか思えないような人が、他の人には別の顔を見せているとわかったり、最後には自分にもその別の顔を見せてくれたり……なんてことは、程度の差こそあれ誰でも経験したり、誰かに経験させたりしているのではないか。

ただ、その変化する表面、所謂人柄とか性格の下には、ベースとなる層がおそらく存在している。それが趣味を通して透かし見たい「人間性」であるとすれば、気になるのはわかる。そしてやっぱり、芸術的な趣味だけを用いてその層を完全に見透かせると思うのは少しばかり傲慢ではないかと思ってしまう。

同時に、表面的な部分と本質的な部分は繋がっているので、何を見て何を好んできたかは、それをどう選択的に発表するかということも含め、その人の内面や深層の理解に繋がることもまたおそらく事実である。

結局、趣味で人を判断しようとしすぎるのもそれをバカにするのもどうなのかしらね、という何か言っているようで何も言っていない結論に落ち着いてしまった。


わたしが使っている音楽ストリーミングサービス「Spotify」は年末になると、その一年でよく聞いた曲リストを作って教えてくれるのだけれど、私はこれを恥ずかしくて人に見せられない。ひとりでイヤホンをつけてこっそり聞いてきた音楽を誰かに公開するのは、自宅に他人をあげて本棚を見せるような感覚に近い。誰にでも本棚を見せられる人もいるのだろうけれど、私にはちょっと無理。

そう。わたしは聞いている音楽や読んでいる本を日々せっせこツイートしたりブログに書いたりしているくせに、自分の本棚やプレイリストごと誰かに見せたくはない。それは単純に人に見せることを想定せずに積み上げているからだし、それらを通じて私の物の見方や思考の癖を透かし見られることを、どこかで恐れているからでもあるのだと思う。

本性と呼ばれるものが真っ裸の私自身だとすれば、誰かと接するときの自分は人に見られることを前提とした、いわば洋服を着ている状態。一人でいるときに聞いてきた音楽や読んできた本は、私自身ではないけれど、洋服よりはっきりと私を象っていて、しかも人に見せることを想定していないもの。私と洋服の間にある、下着のようなものだ。つまりSpotifyで可視化されるよく聴く曲はブラジャーで、本棚に並ぶ本はパンツなのかもしれない。

私は何を言っていますか?


趣味で人を判断しようとしすぎるのも違うなと思うし、でもその姿勢をあまりバカにするのも良くない気がするし、私は本当に何を書きたかったのでしょうか

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さやか
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