【ネタバレ注意】プレイ後感想-Outer Wilds/Echoes of the Eye-

クリア報告とプレイ前感想 

Outer Wildsの追加DLC、Echoes of the Eyeを昨晩クリアした。

Outer Wildsは本編が本当に、すごく美しく洗練された物語だったので、これに何か付け足したものをプレイするということに、ひどく戸惑いがあった。

おそらく、本編クリア済の方々は皆多かれ少なかれ、同じような心情だったのではないだろうかと思う。

エンディングによってもたらされた繊細な感動を、場合によってはゲーム製作者自らの手によって傷つけられてしまうのではないか。もしかしたら落胆する結果が待っているかもしれない。いや、そんなはずはない。またあの宇宙に戻れるのだから、これほど嬉しいことはない。そうに決まっている。……でも、もしかしたら、万が一。

そんな不安を抱えながら配信日を迎え、昨日まで実に13日もの間、ただ好奇心の赴くままに私は再びあの宇宙を駆け続けた。

結果として、深夜の一時に私を迎えたのは、これ以上ない最高のエンディングだった。本当にこれ以上はない。少しでも疑ってしまったことを謝りたい。

クリアから1日経って、もう一度見てまわりたいところもあるし、まだまだ考えたいこともたくさんあるけれど、とにかく新鮮な感想を吐露したくなったので、一番今も深く心の底に刺さっているところだけでも、感情のままに書き殴ることにする。

完全に最後までネタバレをしながら感想を書いていくので、未プレイの人は絶対に見ないでください。

クリアのヒントになるような情報も一切ありません。ストーリー追いかけっぱなしです。


流れ者の第一印象とそれから

蛍光発光鹿角頭。

そう、彼らのことである。みんながどう呼んでいるかをまだ観測できていないので、どう呼称するのが正しいのかまだ分からないが、この旅の途中、私は彼らのことをそう呼んでいた。

もしくはシンプルに蛮族。

Nomai族が持つ、たどり着いた劣悪な環境を切り開いていくキラキラしいまでの好奇心と、高い倫理観と正しい目的意識に則った理知的な遺文がこの「Outer Wildsという世界観と文脈そのもの」だと認識していた私にとって、初手で眼の宗教施設(らしき建物)を焼いた鹿角頭の第一印象は、間違いなく「邪悪な蛮族」であった。

家に残ってる写真とかもそこはかとなく不気味だし。

椅子とか並べて外を見てるのも、きっと解釈違いの住人を吊し上げて「急流生身流し」とかいう名前の公開処刑をして、それを眺めながら歓談してたに違いない。

壁に顔が消された写真が掛かっているのを見つけた時も、普通に「これは村八分の犠牲者だ」と震えた。

水没した後に立ち寄ったために偶然開いていた教会の隠し通路を下って、あの遺体を見つけたときには変な声が出た。「あいつら変な宗教にハマっとる!!」と叫んで、次の日は仕事が手につかなかった。

みんなが白骨化して寝ているベッド?装置?が一つ空いているのに気づいた時も「これは処刑された住人のベッド!!!」と恐怖を募らせた。

結果として、真実はまあ近からず遠からずといったところなのだけれど。とにかく、彼らの「邪悪さ」みたいなものを勝手にビシバシと受け取っていたのだ。

だから、実は裏世界の森のところで鹿角頭と出くわした時に、私は咄嗟に遺物の明かりを隠した。見つかったらヤベェ。あいつら妙な宗教にハマってるので。

それで、その認識が覆されて「蛮族鹿角頭」が「賢人鹿角族」と呼称を改めるに至ったのは、囚人くんに会ったせいである。

せいであるというか、多分あそこでみんな囚人くんのことを好きになるよね。めっちゃ泣いた。

囚人くんから真実を教えてもらって、こちらから旅路で得たものを伝えて、めっちゃ泣いた。ワーワー泣きながら、彼の後を追って一緒にエレベータに乗ろうとしたけれど乗れなくて、「どうして?どうして?」と泣きながら必死で後を追いかけたら、畔にアーティファクトだけが残されていて、それを見たらまた涙が溢れてきた。

どこに行ったの?上にもいない。下にもいない。外にでちゃった?私、死んじゃってるからここから出られないよ。どうしよう。どうして?

ベソをかきながら22分のタイムリミットを迎えて、それで、我に帰った。

行くのか?この状況で?あそこにもう一度。

でも、だって、彼がそう言った。囚人くんが、そう言った。

だからきっと、私はもう一度あそこに行くのだと思った。


さて、そうして次のループで灰の双子星プロジェクトへと向い、再びアンコウ地獄を抜けることになるのだが、今回の眼への道行は本編と意味が180°変わってくる。


鹿角族 VS アウターワイルズベンチャーズ

私たちは、Nomai族の物語を追いかける中で、不安定なこの宇宙における唯一絶対的な「宇宙の歩き方」を知っている。

それは、好奇心に従うことだ。

見たい。知りたい。触りたい。行きたい。どうなるか見届けたい。

一寸先も見えない暗闇を照らすように、竦む足を叱咤しながら、私たちは好奇心を縁に宇宙を駆けてきた。恐怖を克服し、不安をねじ伏せ、時には己の死すら利用しながら、私たちは先へ先へと進み続けた。

その在り方を肯定し、祝福するのがNomaiという先人たちである。

彼らもまた、溢れんばかりの好奇心と知的探究心を原動力にして、いかなる現象も解き明かしてきた偉大なる技術者たちだった。彼らを手本にして、私たちは操作も覚束ないような未知の宇宙を飛び続けてきた。

Nomaiが見たがった、知りたがったその先へ、私たちは飛び込むのだ。そこに何の疑いも、躊躇もない。いっそ清々しいまでの達成感と共に、彼らの宇宙は終わりを迎えて、新しい宇宙が始まる。


しかし、今まで隠されてきた「鹿角族」の登場で、その絶対的な指針が脆くも崩れ去った。

深く彼らを知るごとに分かってしまう。鹿角族が望んだのは「半永久的な安寧」で、彼らの根幹は「郷愁」だった。

眼に導かれて、眼という「機能」を理解した時、彼らは他の誰も眼に到達しないように努力し、そして亡くした故郷を懐かしんだ。

彼らはきっと、ただ家に帰りたかったのだ。

もう二度と戻れない我が家。家族や友と過ごした穏やかな日常。懐かしみ、顧みて、そして紛い物を作り上げる。

それでも彼らが知的生命体である限り、好奇心を縁に暗闇に一歩踏み出していく「先駆者たる冒険家」は必ず現れる。

しかしそれに三重の鎖を施して、深く深くに彼らのOuter Wilds Venturesを沈めてまでも、彼らは安寧を望んだ。

それで、じゃあそれを一体誰が責められるというのだろう?

確かに、Outer Wildsの流儀には反する。

それでも、音楽を奏でて杯を酌み交わし、気心の知れた共とボードゲームに興じて笑う毎日を望んだ彼らは、何も悪くないのではないか。

だから彼らは、侵入してきた私たちプレイヤーを探し回り、見つけたら仮想世界から追い出す。好奇心を締め出さねばならない。未知のものへと無謀にも突き進もうとする先駆者は間違いなく、平穏と安寧を求める者の「敵」である。逆もまた然り。だから、私たちは安定を求める彼らを振り切って、暗闇の中を走り抜けなければならない。それが、私たちOuter Wilds VenturesがOuter Wilds Venturesであるための試練だ。

一度それを振り切って前へ進めば、安寧に囚われた者を嘲笑うように抜ける方法すら分かり始める。未知が既知になる。

そして、私たちはついに彼らを欺いて、まんまと奥深くに沈められていた彼らのOuter Wilds Venturesを解放した。


あの封印の地下で、NomaiとHearthianの存在を知った囚人くんのことを思うと、ひどく感慨深い。

彼はきっと集団の中の異端児としてあそこにひとりぼっちだったはずで、そんな彼が、知的探究心を肯定しながら未知へと突き進んでいく人たちが大勢居たと知った時、それはきっと、彼の存在をも肯定したのだろう。

そして彼は、自ら死を選んだ。

未だ確証はないから、もし間違っていたらこっそり教えて欲しいのだけれど、意思伝達杖だけ置いた彼の姿がどこにも見当たらないということは、彼は「仮想世界」から抜けた、ということで、おそらく現実の肉体は現実の封印の中で骸骨化しているので、彼はあの仮初の安寧を捨て「死」を選んだのではないかと思っている。

彼がそう言ったから、私は再び眼に向かう。しかし、これは前回と全然状況が違っている。

明確に「眼に至る」ことを妨害する賢人鹿角族の登場によって、私たちの価値観は揺らいでいる。


宇宙の眼に至る意味の変化

今までは眼に至ることは「Nomai族の物語の先」という肯定的なイメージであったはずなのに、今回はそこに「賢人鹿角族が望まないこと」という要素が加わり、より複雑さを増している。

だから、Echoes of the Eyeをプレイしてしまった今、私にはもう一つ「真のエンディング」とも言うべき選択肢が増えてしまった。

灰の双子プロジェクトでワープコアを取って、そのまま木の炉辺に帰り、何も知らない人々と一緒に村で最後のひと時を平穏に過ごすのだ。

太陽は超新星爆発を起こし、灰の双子プロジェクトも停止して、眼には観測者が至らないままで宇宙は終わりを迎える。

これはこれで、良い終わり方なのではないだろうか。アリかもしれない。


鹿角族は、情緒に溢れて感情豊かだった。

Nomaiが文字を意思疎通の道具としていたのに対して、鹿角族は映像をそうしている。

居住地は木材で、かつての故郷に似せた自然環境まで用意した。

家の前を流れる川を眺めながら、椅子に座ってゆったりと過ごすためのデッキ。

片隅に置かれたボードゲーム。釣りの様子が描かれた絵画。

大勢で音楽を楽しむために作られたステージ。ぽつりと置かれた楽器。

鹿角族の在り方は、Nomaiのようなシステマチックな文脈をしていない。どちらかといえば、感性に重きを置き、穏やかに日々を生きているように見える。


そんな彼らの大切な日常を、彼らのたどってきた足跡を、あなたは新星宇宙と引き換えに跡形もなく消し去る覚悟があるのか?

今回の船への旅路は、プレイヤーにそう問いかけているように見える。どちらか選べと、そう言われているのだ。


そんなことを考えながら、それでも私はOuter Wilds Venturesでありたい一心で眼へと至る。楽器を集めて、そして最後に鹿角族の弦楽器を手に取る。

ひとつひとつ、自分で蝋燭の明かりを消していく。

こんなの、ひどい意地悪だと思った。


鹿角族が友と寄り添ったあの日を消す。

Nomai族が眩しいほどの探究心で切り開いた足跡を消す。

Hearthian族の大切な友人たちと思い出を消す。

そして最後には、念願の宇宙服を着てここへと至った己自身を消す。


まるで「眼に至った」という覚悟と責任を問うかのように、自らの手で大切なものを消しながら、私たちはようやく、木製の弦楽器を一つ手にすることになる。


自分を思い出してもいいのか?と彼は問う。

観測者の「思い出」に加わることで、新宇宙での構成要員になるのだから、つまりそれは、鹿角族のもつ「愚かさ」つまり「安寧を求め、危険を遠ざけ、感情豊かに日々を過ごす」ことを一員として受け入れるか?という問いかけだ。

イエスだろう。イエスに決まっている。

もう私は、彼らのことを蛮族だの、邪教だの、蛍光発光だのと呼べなくなっていた。

鹿角族の持つそれは、間違いなくOuter Wildsの裏側である。

好奇心を縁に宇宙を飛んできた私たちが、常に心の隅に抱いてきたものだ。それがなれければ、きっと嘘だ。誰だって、恐怖と一緒にここまできた。


囚人くんの楽器は、音程の安定しない弦楽器だった。

これもNomaiとは対極的だなぁと思うのだ。

片や起源がわからないほど世界のどこからでも発生し、単純な構造が故に古くから土着楽器としてそこかしこに定着している弦楽器。

片やその複雑で繊細な構造が故に、登場によって人類の音楽を一段高みへと持ち上げた技巧派楽器であるピアノ。

これほどまでに、彼らは互いに向き合いながら、世界の両端を象徴している。

追加DLCだ。拡張だ。間違いなく、Echoes of the Eyeは世界を拡張せしめた。絶対的だと思われていた「知的好奇心」という真っ直ぐに伸びる美しい文脈に、突如として対極な「平穏無事」という価値観が蔦のように絡まる。より深みが増して、奥行きが広がる。

アップデートによって、作品のもつ文脈と哲学が複雑化する。これはまた、ゲームにしかできないし、ゲームだからといってできる話ではない。


最後に

プレイしてよかった。本当に、期待以上のものが広がっていた。本当に全人類にプレイしてほしい。

感情のままにここまで書き殴ったけれど、言いたいことの半分も書けた気がしない。それほどまでに、Outer Wildsの持つ感情の量と情報の量が多すぎて、未だ咀嚼するのに時間がかかっている。全然飲み込めない。なんならお昼間に思い出して仕事中に泣いている。

またちゃんと飲み込めたら、飲み込めた分の感想を書きに帰ってこようと思っている。


そして私にはまだ、全ての事情を知った後でもう一度彼らのお家を歩くという仕事が残っている。心を整理して、明日からはその一大事業に取り掛かりたい。

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