Twitterでaltを書くとき、デッサンをしている気分になる

最近、Twitterで画像を投稿するときに、画像の代替テキストを入力できるようになった。フォロワーもほとんどいないアカウントだから、そんなのつけても意味ないのでは、、、と思わなくはない。そうは言っても、全く誰も見ないわけではないだろうと思うと書かないわけにはいかない。そういうわけで、代替テキストを書くようにしている。ツイートに、写真の内容を書くときもある。しかしそれは、代替というよりキャプションの性格が強い。ゆえに代替テキストを別途入力する。

他人がalt入りの写真をアップしていると、ついつい見るようになってしまった。見惚れるような景色、透明な花瓶に一輪挿しの花。文章で、写真におさまっているすべてを描写するのはとてもむずかしいなと感じる。「代替」と名のつくとおり、あくまで写真≒文字なのだ。写っていないことを書いたり、写真を説明する文章ではない。altという場所は、写真を撮った背景を書く場所や、写真に映る対象物の歴史を語る場所ではない。だから難しい。

altを書くために写真を眺めていると、まるで自分がデッサンをしているかのような気分になる。高校の美術の時間に、利き手じゃない方の手をデッサンしたことがある。あのときも、手をずっと眺めていた。眺めながら紙に描き写していくのだが、慣れていないので、段々想像で書く部分が増えていく。じっと見つめても、紙にうつすと何か違うものが現れる。影の付き方や、指の付け根の位置、手のシワ。デッサンの時間は、「見ているつもり」と対峙し続ける時間だったような気がする。それと同じ感覚を、altを書いているとと感じるのだ。

…と、ここまで何かそれっぽいことを書いてみたが、実際に投稿している写真は自撮りだったり、コンビニで買ってきたコーヒーだったりと、そんなに悩むことなのか?と思うようなものが多い。なので、肩の力を抜けよと自分に言っている。altを書くこと自体は楽しい。これは続けようと思う。