アーティストと作品は不可分

宝塚の一件で、「事件は大変だけど作品を見るペースを落とすつもりはありません!作品は作品、別なので!」と宣言してるひとを見て、いろいろと考えを改めることにした。

ぼくも、アーティストが罪を犯したときに、そのひとが生み出してきたものまで避ける必要は無いと思っていた。けれどそれはおかしいと、先の宣言を見て感じたからだ。

たとえば、ぼくは宇多田ヒカルが好きなので、仮に彼女が殺人をしたとしても、曲は変わらず聴いても問題ないと考えていた。そしてそれは、曲に罪は無いからというのが大きな理由だった。

けれども「宝塚が今大変だけど作品は作品で別なので見続けます」と言ってるひとを見て、「作品に罪がない」は、厳密には「作品に罪を背負わせることができない」なのではないかと考えを変えるに至った。

宇多田ヒカルが曲をつくったなら、曲は宇多田ヒカルから生まれたものだ。仮に作詞作曲・プログラミング等が彼女の関与しないところであっても、シンガーとして歌う場面を見せたならそれはもう曲そのものが宇多田ヒカルに依存してると言えるのではなかろうか。であれば作品とアーティストを切り離すのは難しいんじゃないかと。

作品の視聴なんて、表立って言わなければどういう主義主張のものを見たり聴いたりしたって別に自由と思うけど、渦中にあってなお、身の振り方を決めかねてるようなアーティストが大きく関わる作品を、好んでこれからも「聞き続けます!」「見続けます!」等言ったりそういう態度を取るのはやめよう…と強く思った。

アイドルのファンがめちゃめちゃCDの販売数を気にしたり、ストリーミングの再生数を気にしているのが、まさにアーティストとその生み出されたものとの繋がりを示してるじゃんと思った。「曲に罪は無い」はさすがに解釈として都合が良すぎるなと。

宝塚のような事件が起こっても、それでも見たくないものを見ないふりして、いつもどおりの生活を送る可能性の方が高いんだよ。自分だってそうだ。もし宇多田ヒカルが殺人を犯したってなったら、急いでゲオとかに行ってCDを買いあさると思う。

そう。自分の意見・考えが揺れ動きやすいってわかってるから、だったらあらかじめ態度を決めとくのは悪くないんじゃないかなと思ってこの文章を書いたのだ!