三重苦、どれか一つを選ばなければならないとしたら

気持ちに余裕がなくて、なかなか物語作りに集中できないでいる。
毎晩、ベッドに潜り込んでから灯りを消し、眠りに落ちるまでの数分間、書きかけや思いついたままの物語の断片の続きを想像するのだが、その時間はとても短い。
書くための想像ではなく、すっかり眠る前の儀式になってしまっている。
なかなかもどかしい。

今はその気になれば横になってからでもスマートフォンで小説書きもできるのだけど、睡眠に影響があると言われて久しいことをわざわざやるのも気がひける。
それでなくても目の疲れは年とともにひどくなっているのだ。負荷をかけすぎて目を痛めたら元も子もない。

ヘレン・ケラーの伝記を読んだ子供の頃、目は見えず、耳は聞こえず、喋れない三重苦のどれかをヘレン・ケラーの代わりに担わなければならなくなったら、という想像を何度もした。
実は今でも時々、同じ想像をすることがある。3つのいずれかの感覚を失わなければならないとしたら、自分は何を選ぶのだろうか。

どれか一つと言われたらだが、僕はおそらく話せなくなる不自由を選ぶ予感がする。
もちろん声を失い、会話ができなくなることは不便すぎるほど不便だ。
でも意思の伝達を代替するテクノロジーは、話せない不自由を解消するのがいちばん早そうに思える。

コロナウイルスの最初の流行の際、3週間ほど誰とも喋らずに過ごした。
日用品の買い物に出ても、商品を無言でレジに出し、無言で金を払い、無言で受け取って帰る。そんな毎日だった。
ここまで過敏になる必要が本当にあるのかと疑問にも思ったが、同時にこれはちょっとした無言の行っぽいと、ほんのわずかではあるが、楽しんでいたところもあった。

例えばH・D・ソローは森の生活の中で独りでも何かを喋っていたのか、ヘミングウェイの描いたカジキ釣りの老人は、船の上で何かを喋ったのか、霊巌洞に籠もった宮本武蔵は、五輪書を書きながら何かを喋っていたのか。
そう考えると、人は喋らないシチュエーションでは喋らないものだ。
いや、そんなシチュエーションで独りでベラベラと喋っていたら、とうとう精神に異常をきたしてしまったかと思われるだけだろう。

耳が聞こえなくなる。音楽が聴けなくなる。
僕の中にはこれまで聞いたたくさんの音楽がしまいこまれていて、頭の中でいつでも再生できるようになっている。でも、耳で聴けないのはやはり苦痛だ。
目が見えなくなって小説が読めなくなったら、それは生死に関わる。
音声読み上げがあったとしても、僕にとっては小説は文字を目で追い、書かれていない裏側まで含めて読むもの。
どれか一つを残すなら、目を残すことを選ぶだろう。


無言のくだりで思い出したが、昔、先輩が父にゴルフを習いにきた時、休憩の間、一人でテレビのクイズ番組を見ながら、一人で早押し〜回答していたことがあった。
その様子を台所から見ていた母は、一人暮らしだとそういう習慣もできるのかと、これまた見当違いの納得をしていたらしいのだが、問題は一人で早押しの真似をし、声に出してクイズに答えることではなく、その答えがことごとく間違っていたことだった。
先輩が帰ったあと、「ボタンを押すのは早いんだけどねえ」と母が困った顔をしたのを見て、父と僕は腹を抱えて大笑いしたのだった。
脳梗塞の予兆はないかと、春先には一人で早口言葉を言って、確かめていた僕が言えることじゃないが、やはり一人の時は無言の方が良いようだ。


(追記)
「見ざる、言わざる、聞かざる」で有名な日光東照宮の三猿。
あれは悪しきものを見ない、聞かない、語らないという智慧を表しているそうだけれど、世の中には見たくないもの、耳にしたくないもの、語りたくない相手が増えすぎている気もするねえ。

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