私へ。覚悟はいいか
こんにちは、樹です。
今日はタイトル通り自分へ向けて書いています。
今まで何度も「よし、覚悟決めた!」と言ってみても結局言っただけで終わっていました。同じ過ちを繰り返し、なんの成長もないまま。
今回それを断ち切るため、人の目に触れるかもしれないこの場で宣言することで「覚悟を決める儀式」をしようと思った次第です。
ですのでここからは、自分への言葉。
文体も変わりますのでご了承ください。
モヤモヤを書き出す
自分がいいと思っていることと、
相手がいいと思っていることが違う場合がある。
自分も良くて相手も良い、そんな道を探っている最中だ。
これは本当に難しい。
「善意」が突き刺さったことがある。
最初に言っておくと、被害者ヅラしたいわけではない。
相手が私のためを思って提案してくれているのは十分に伝わってきたからだ。
「これが今の私にとって必要な課題なのだろう。学びをありがとうございます」と受け取った。得られたものもあった。ありがたい出来事だと、対応していた当時も、今も、そう思っている。
でも、感情は別だった。
痛くて怖くてつらかった。
求めていないものを逃げられない状況で強制的に押し付けられ、持て余し、これをいったいどうすればいいのか分からなくて泣きながらひたすら「ごめんなさい。ありがとうございます。ごめんなさい」と繰り返した。
胸が痛くて、はやく、はやく、ここから逃れられますようにと願って。
自分がいいと思ってやろうとしていることが、相手にとってもいいものか。
これは絶対に正解が分からないことだ。だって、自分以外の人の心を完全に理解する事などできないのだから。「ありがとう」と言っていても建前かもしれないし、本心かもしれない。それは相手にしか分からない。
だからといって悩んでばかりいては進むこともできないから、ある程度のところで腹を決めて、挑戦してみるしかないのだが。
けれど今回、良かれと思ってやったことが相手にとって良くなかったこと(痛み)になってしまった事例を身をもって体験してしまった。
今回の私は受け手側だったけれど、一歩間違えば自分もこの痛みを誰かに与えてしまう側になるのだと思うと震えた。
同時に、もしかしたらこれまでの人生の中で、無意識にこの痛みを誰かに与えていたことがあったのかもしれない可能性にも気付いた…
覚悟を決めて行動するとはなんて大変なことだろう。
まだまだ、自分には覚悟が足りていなかったと痛感した。
モヤモヤを紐解いて見つけた、憤りと恐怖
この痛みすらも成長の糧にしていくからこそ、高みを目指していける。
少なくとも私は(まだ感情の部分では完全に乗り越えられていないけれど)咀嚼して、飲み込もうと動けているからいい。私は、大丈夫。
でも、そうできないひとは?
そこでポッキリと心が折れてしまったら?
最近あまりにも言葉の暴力を目にすることが多くて、どうしてそうも無責任に言葉という刃物になり得るものを安易に扱えるのかと思ってしまう。
一度壊れてしまったものは、もう二度と同じ形には戻らないというのに。
そして、そういう私自身もまた、丁寧に言葉を扱っているだろうかと日々自問自答する。
覚悟は、あるか
使う人間によって、モノは形を変えるのだ。
善意も使い方を誤れば人を傷つけることがある。
覚悟は、あるか。
どんなことも、自分の責任だと思って行動する覚悟が。
理不尽なことも、予測不可能なことも、生きていれば必ず起きる。
それでも自分の責任だと思える、その覚悟が。
「あの時あの人が行動してくれなかったから」
「運が悪かったから」
そうやって自分以外のせいにするのは簡単だ。
だって実際そうなんだから。確かにそうだ。一理ある。
でもそれってつまり、自分で自分の人生の舵取りしてないよね?
自分じゃどうにもできないからとただ眺めて終わるだけで、どうしようもなくなっちゃう。
他人に私の舵を握らせてたまるかってんだ!!!
私の船なんだから、私が操縦する。
全部自分ごととして捉えて責任を持てば、自ずとミスを防ごうと対処したり、どう進んでいくか自分で判断できる。
”誤った使い方”にならぬよう、相手を想い、あらゆる方法を考えて手を尽くす。片想いではなく、両想いになれるように。
でも、それはすごく難しいことだということも分かっている。
この価値観をおかしいと言う人もいるかもしれない。
けれど、目の前で起きていることは”意味があるから”起こっているのだから。
それを自分ごととして捉えれば成長できるし、他人ごとにしている内は、私が目指している「ひとりひとりが互いを想いやる優しい世界」になんてたどりつけない。
だからこそ、私よ、覚悟を決めろ。
今が、その時なんだ。
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