見出し画像

「友達は少ない」~第一回 Nさんのこと

いきなりだが、僕は友達が少ない。仕事関係やライブイベント関係の集まり以外、誰かを誘って遊びにいったりすることはほとんどない(そのため、妻にも若干心配されている)。それでも、日々の生活において大きな影響を与えてくれた人たちというのは存在する。大いに信頼を置いているのだけれど、じゃあ友達、友人と称するほどの気の置けない関係かと言われると、ちょっと違うような気もする――そんな人たちを勝手に紹介する企画、第一回目はNさんのこと。

Nさんとの出会いは、2002年。僕がライターを目指し入学した専門学校に通っていたころだ。その専門学校はミナミやアメ村まで徒歩圏内という絶好の場所にあり、泉州の片田舎で暮らしていた僕にとっては通学する時間すら刺激的で、何もかもが楽しく感じていた時期だった。
ある日、専門の同級生で、ひとりでフリーペーパーを作成するなどフットワークが軽かったTさん(女性)に、「心斎橋の雑貨屋でNさんという面白いミュージシャンと出会ったけれど、私がこれまで聴いてきた音楽とはちょっとジャンルが違うから、代わりに取材してくれない?」と頼まれた。当時、TさんはGOING STEADY~銀杏BOYZに代表される青春パンクを追っていて、一方の僕はというと、岡村ちゃんやじゃがたらからファンクを聴きはじめ、メジャーシーン以外の、80’ニューウェーブをはじめとしたコアな日本の音楽に足を踏み入れた時期だったように思う。

で、そのバンドというのが、ジャンル的には「ポスト・ロック」に分類されるという。
「ポスト・ロック」とは何か? それはあとあと自分なりに理解していくことになるのだが(気になる人はウェブで検索!)、そのときはそこまで詳しいわけでもなかった。そこで、これまた同級生で、高校時代にはひとりでフジロックに行ったことがある猛者F(彼は数少ない友人だ)に、なにか参考になるアーティストいない? と相談したりした(そのときにもう聞かないからあげるわ、と言われたのが、モグワイ、ディラン・グループ、プライマル・スクリーム「スクリーマデリカ」などだった)。

Nさんは「P-shirts」というバンドをやっているという。大阪を拠点とするインディーズのバンドなのに、なぜか当時の編集長がいたく気に入り、ラーメンズや板尾創路表紙の『QUICK JAPAN』に特集記事が掲載された直後であった。

Tさんの依頼を安請け合いしたものの、取材するにおいて相手側の経歴を予習するのはマナーということで、事前に『QJ』の記事を読み、ポップコーンの匂いに包まれたライブハウスこと神戸チキンジョージ(w/Limited Express(has gone?)...etc)や、心斎橋クラブクアトロ(w/downy...etc)でのライブを見に行くことになった。

当時、4人組だったP-shirtsにはバイオリン奏者がメンバーとして在籍しており、ベースもダブルベースで、さらにドラマーはジャズマナーだったりと、いわゆる通常のロックバンドとは異なる、変則的な編成であった。バンマスでありギター、ボーカルを担当していたNさんは、レディオヘッドのトム・ヨークばりの美声を操りながら、1曲10分程度の、徐々に高揚感を増していくエモーショナルな構成の楽曲を絶妙にコンダクトしていた(今考えるとじつにポスト・ロック的だ)。最後には、絶望をすべて引き受けたような絶叫を轟音の中に響かせるエクストリームな空間を作り出しており、その繊細さと豪胆さには舌を巻いたものである。

このライブの衝撃を解き明かすために今のライター人生があるのではないかと思うほどのもので、一緒に観に行った同級生のTとその友達のSは、あまりの轟音もあったのか、涙を流してしまうほどだった。Sは「怖い」とも語っていたが、たしかに不安を掻き立てるような類のものであり、これまで味わったことのないタイプのライブであった。
当時、僕が残したメモには、「青い炎のよう」とその印象が記されていた。

ライブ後、Tに紹介してもらい、Nさんに挨拶した。そのときNさんは、「握手するとき、相手の顔を3秒見つめるとずっと忘れないらしいよ」と言い、微笑みながら右手を差し出してくれた。スラリと背が高く、関西風に言えばシュッとしたNさんの優しげな表情と、(思ったより強く)手を強く握られた感触は、今でも鮮明だ。

そこから実際に取材する機会を経て、7つ年上のNさんと交流を深めていくことになる。P-shirtsのライブにも通うようになり、なんばベアーズや十三ファンダンゴといった関西シーンにおける重要なライブハウスを訪れるきっかけともなったのである。

ときにはNさんと一緒にお茶をすることもあり、音楽のことのみならず、他愛のないことも話した。ブルースをルーツに音楽をはじめたNさんは、読書家で博識、センスも良いおしゃれな人であったが、それをひけらかすことは一切しなかった。一方で苛烈で潔癖なところもあり、周囲とは多少揉め事のようなものも発生していたと聞く。ただ、それは自身の音楽性や意志を阻害するもの、揶揄するものへの愚直な反抗だったと言って良いだろう。

専門の卒業年、東京で三週間ほどインターンをして、何もできなかった気持ちが強く失意で帰ってきたときも、(それを知ってか知らずか)真っ先に声をかけてくれ、3日間開催予定のイベントにスタッフとして入れてくれたのもNさんである。そのイベントのパンフレットを、学校の制作展用として勝手に組み込んで制作したり、卒業制作として制作した僕のフリーペーパーにもインタビュイーのひとりとして登場してもらったりした。関西インディーズシーンのトビラを開けてくれただけでなく、ミュージシャンという生き方や考え方、ノルマ制を含めたライブハウスのあり方、インディペンデントなイベントの組み方など、そういった「システム」を体験したり肌で感じたりすることができたのも、Nさんのおかげなのである。


専門の卒業した2003年、僕は大阪の実家を出て上京したこともあり、以前のように頻繁に連絡を取り合うことも減った。だが、古谷実の『ヒミズ』という漫画が舞台化されたとき、その音楽をNさんが手掛けていた縁があって東京で再会したり、それからもずっと良い距離感を保ちながら現在まできている。

メンバーチェンジを繰り返しながら関西を拠点に活動を続けていたP-shirtsも、2007年にリリースした『HeartLand』という不朽の名作を残し、その後しばらくして解散することになった(実質上の解散ライブとなった下北沢ERAでのライブを目撃できたのは幸運であった)。このアルバムはインディーながら自主ではなく別レーベルから発売される予定もあり、本来であれば、もっと大きな舞台で活躍できたバンドであったのは間違いない。しかしそうはならなかったのは、なんとも厳しい現実である。

Nさん自体は、DEADPHONES(デッドフォン)、goat eats poemといった名義で、断続的に音楽活動を続けている。そのサウンドは普遍的なフォルムながらどこか不安定で、かつ引っ掛かりのあるメロディが特徴となっている。これはP-shirts時代から変わらないし、彼の声が響き続けていることは、やはり嬉しい。

ちなみにP-shirtsの最終作『HeartLand』のプロモーション原稿/ライナーノーツを、僕が書かせてもらっている。CDのライナーや帯にも使われているのだが、音楽ライターとしてやりたかった仕事のひとつであったから、Nさんからの依頼はこの上ない喜びだった。それが執筆できたのも、ライターとミュージシャンという関係性が、それなりに交流はありながらもずっと変わらなかったからである。

時を経て。Nさんはいつの間にか上京し、2020年現在、偶然にも僕と同じ街に住んでいる。連絡を取り合うことは少ないものの、喫茶店や道端でばったり会ったりして、そのときによもやま話をする。それがスムーズにできるのは「友人」になったからだろうか。いや、やはりライターとミュージシャン、という間柄から生まれる会話でしかない気がする。それが特別美しいものだとか、かけがえのないものだとかは思わない。ただその距離感が変わらないことが、心地が良いのは確かなのである。

↓舞台『ヒミズ』の主題歌「ramble」。一生愛する曲。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?