「ぼくは体育会系が苦手だ(後編)」
前編では著者の過去の体験に照らして体育会系とはなんだろうか?ということについて述べてきた。
後編では体育会系とはどのようにして継承されてきたものなのか?体育会系は今後も受け継がれていくのだろうか?といったテーマで私見を述べたい(※あくまでぼくの私見であることを申し添えておく)。
体育会精神は無意識に受け継がれている?
いきなりだが、ぼくは体育会系というのは、とりわけ日本人(とくに男性)が好む傾向にある思想であるように思う。
それは日本の近代史(明治・大正・昭和)を見ても、物珍しくはない考えであるし、軍人思想とはまさにこの体育会系の精神そのものであると言っても過言ではないとすら思えてくる。
いやいや、いまはそういう時代じゃないって〜
って思われた方。
思い出してみてほしい。
親や上司や、目上の人から
「これはこうなんだから」、「ダメだ、こうしろ!」だとか、「強くなりたいんだろ?だったら文句言わずにやれ!」
理不尽だなーと思いながら従った経験はないだろうか?
ぼくにもこれまでたくさんあった。
なんで、こんなことする必要あるの?ってことまで事細かに挙げれば、まさに枚挙にいとまがないくらいに。
理不尽で、非合理的ですら思われ、意見しようとすると、こんなことを言われたり思ったりしなかっただろうか?
親の言ったことだから守らないと
上司の言ったことだから守らないと
先輩と言ったことだから守らないと
これこそが体育会系のマインド構造であると思う。
みなさんは、運動部系の部活動をされた経験はあるだろうか?
スポーツの得意・不得意はさておき、中学や高校では運動部に入部された経験をお持ちの方は多いのではないだろうか。
自分も高校こそ帰宅部だったが、中学の頃は陸上部にいた(途中でバンド活動にのめり込み、幽霊部員になってしまったが)。
中学までほとんど体育会系とは無縁だったぼくだが、高校に入っていきなり「ザ・体育会」と言った雰囲気を初めて味わう(詳細については前編を参照されてください)。
男子校だったこともあり、校内では先生の言うことは絶対であったし、先輩・後輩の関係は厳しかったと思う。
そこでは様々な「?」な指示が飛び交っていた(前編に触れているのでそちらを参照)。
身近にはびこる体育会思想
体育会系組織では、部下や下層にいる人間の思考を出来るだけ停止させることに長けている。
なぜ、そのようなことをするのか?
それは、上層部にいる人間(運営者)にとってそのような組織は都合がいいのだ。
部下に自分の考えを否定されたらどうしよう?という恐れをうまくカモフラージュするにはもってこいなのだろうから。
「お前は黙って従っていればいいんだ」という思想。
これは一見、指導部や運営側から見ればなんとも都合のいい思想である。
それに、体育会系の組織で上層部にいる人間というのは、もともと体育会系の組織の叩き上げだったりする。
統率力を求められる国の組織や軍隊などを見れば多くの場合はこの体制をとっているところが少なくない。
なぜかといえば、管理しやすいからであり、意見の集約を必要とする場において、あれこれ言われるのは運営者側にとってやりにくいのだろう。
もう一度言う。
「お前は黙って従っていればいいんだ」という思想。
あなたの身の回りにはびこっていないだろうか?
そして、ぼくたちはそれを当たり前のように受け入れ、知らずうちにそれを強いてはいないだろうか?
ぼくには一歳半になった息子がいる。
最近、いろいろなものに興味を持って、ぼくのスマホのカメラでパシャパシャ。
「電話したいから返してちょうだい」と手を差し出しても、イヤイヤと首を振っているばかり。
それが続いて、いい加減につい口をついて出てしまう言葉
「ダメ!」
1歳半の息子は「?」という顔をする。取り上げると泣きじゃくってしまう。
込み上げる罪悪感にも似た気持ち・・・・・・
いつか自分もこんなことを言われたことがあったのを思い出す。
「親の言うことは聞かなきゃダメでしょ?」
確かに一理はある。でも、それって本当なのだろうか?
子供を思う親の気持ちは受け止める必要があるだろうが、
その内容はほんとうに正しいことなのだろうか?
親だからといって、無条件で受け入れていたのでは、まるで思考停止である。
考える子供に育たない。ぼくはそう思う。
では、親としてぼくは息子になんと言ったらいいのだろう?
これと同じようなことが家庭内を越えて、社会全体に溢れているように思うのはぼくだけだろうか?
ふと立ち止まって考えてみてほしい。
これこそが、思考停止の罠に陥れてしまう、体育会の呪縛から抜け出す方法だと思う。
最後に:体育会系の連鎖を断ち切るには?
最後に、最近読んだ本に出ていた体育会系の人の意見を挙げてから、
先日、「マチズモを削り取れ(集英社)/武田砂鉄」を読んだ。この本自体は、主に男女差別をテーマにしているが、中に「体育会の圧力」という章があり、これを読んだのがこの記事を執筆した初動機である。
武田さんの意見には通ずるものを感じたので、もしご興味のある方はそちらも参照されたい。
自分とは違う体育会系の人の意見や考えも併せて挙げられているので、なかなか興味深い。
さて、これまでダラダラと体育会についてあれこれ述べてきたが、体育会系の連鎖を断ち切るにはどうしたらいいか?について少しだけ触れておこう。
まず知っておきたいのは、体育会系は無意識に連鎖するということ。
体育会系の意識というのは、遺伝子レベル?というほど、親から子へ、若い世代へ知らないうちに「伝統」という仮面をかぶって不条理なものまで含んで受け継がれてしまうことにあると筆者は考える。
「伝統」というのは、体育会系にとっては誠に都合がいい連鎖の仕組みであり、システムであると言っていいだろう。
年間行事や地域行事、神仏葬祭など、ぼくらはよく、「古くから受け継がれてきたもの」をとくに顧慮せず受け入れていたりする。
そこに潜むある種の「不条理」によって苦しんだ経験をお持ちの方も多いだろうし、同じような苦しみまで次世代に継承する必要は本来は全くないはずだなのだ。
なのに、ぼくらはズルズルとそれを続ける。辞めようともしない。
なぜか?
続ける方が波風立たずに楽なのだ。
変えたくないのだ。変えるには力がいる。
結局は、水は低きに流れるが如し。ぼくらは生活を脅かすものを恐れるから固執する。古来からの風習や伝統もまた然り(※何度もいうが否定するわけではない)
ぼくは体育会が嫌いだが、体育会系そのものを否定するつもりはない。とくに精神論の重要さを否定する者でもない。
ただし、根拠のない精神論にばかり陥ってしまうのは危険であると思うし、それは近代史において日本という国が辿った軌跡を振り返ってみても明らかである。
体育会系論者から多く聞かれる「強者の理屈」というものには賛同できない。
「強者の理屈」とはつまり、「強い者にのみ発言権があり、弱い者はそれに黙して従え」という考えと言っていいかもしれない。
これは、とくにスポーツなど勝負の世界を勝ち抜いていく過程で刷り込まれ、陥りやすい理屈に思う。
勝てばそれでいいのか? ならばあなたにとって勝つこととは、強いこととは何か?
「勝ち組」「負け組」という言葉が使われて久しいが、その考えが社会を縦に狭くしてしまってはいないだろうか?
そもそも、世の中で何が勝ちであり何が負けなのか?の論議の結論は個人が下すことである。
縦社会というのは上下ばかりのびて、横の広がりに欠ける。思考も常識的に制限され、どうしても狭くなってしまう。
ぼくは海外生活を経験しているからか、日本という社会がどうにも狭く感じられる時があるが、なぜだろうと考えてみると、日本的な縦社会にその原因があるようにも感じる。
縦社会に縛られることのない生き方にシフトチェンジすることで、思考はより深まり、また世界は広がるのではないだろうか。
まずは自分自身でそれを試してみたい。
(終)
著者:三上惟月
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