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五日市の文化人 日本のナイチンゲール 萩原タケの功績

皆さんは、あきる野市役所五日市出張所の玄関前に建つ萩原タケの胸像をご存じでしょうか。この胸像は彼女の功績を顕彰するとともに、広くその功績を人々に知って貰うことを目的に、昭和60年11月3日に建立されたものです。

彼女は明治26年、20歳で日赤病院看護婦生徒七回生として日本赤十字社に入社以来四十有余年にわたり、ナイチンゲールが掲げた「博愛と献身の精神」を実践した看護婦※です。三年半に及ぶ修行養成期間を終了し、看護婦として勤務するや、敏捷性と手際の良さ、気配りができる看護婦として信頼され、医師、患者を問わず賛美の声が上がったそうです。また、彼女自身も救護活動を経験しての使命感と看護婦という職業に対する誇りと自負心をもって看護の道に邁進していったそうです。

明治42年、36歳の若さで日本の看護婦界の最高の地位である日赤病院看護婦取締(看護婦部長相当)に就任して以降、昭和11年5月27日、持病の喘息をこじらせて63歳で亡くなるまで足かけ28年間、現役の監督(明治43年に取締から改称)であり続けました。この間に養成した看護婦は二千七百余名に上り、看護婦の技術と地位の向上に尽力するとともに、日本における看護婦協会の組織化に取り組みました。

また、海外出張や国際看護婦協会が主催する多くの国際会議に出席するなど、日本国内にとどまらず、世界をも舞台に大いに活躍したキャリアウーマンの先駆けとも言える人物でした。

萩原タケ1

▲ あきる野市役所五日市出張所玄関前に建つ萩原タケの胸像(昭和60年11月3日建立)

そんな彼女の最大の功績は『日赤の看護婦とは、上品さと謙虚さとを兼備え、患者の身になって感じる心と気配りが出来、長い経験の積み重ねによって練り上げられた技術を持合せること』という看護婦のモデルを確立したことだと言われています。大正9年、フローレンス・ナイチンゲール記章が制定されると、数々の功績が赤十字中央委員会の評価を得て、日本人として初めての受賞に輝いています。

まだ女性の社会進出そのものが容易でなかった時代において、看護婦という天職を得て、世界にまで活躍の場を広げた萩原タケは、正に郷土が誇る偉人と言っても過言ではないでしょう。

参考文献:萩原タケ ナイチンゲール記章に輝く郷土の人(あきる野市教育委員会編)

(※注)現在、看護婦という表現はありませんが、本文は時代考証に合わせるためにあえて使用していますのでご了承ください。

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