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性について語ることは、女性にとって簡単であってはならない。ブームであってもいけない。

いつの時代だって社会は激動の時代で、話題は常に移りゆく。

ブームという言葉がとても不適切だと思うけど、今の性教育ってブームなのかもな。と思う。


性教育はとても大切だ。
だけど情報が増えれば増えるほど、賛同できるものもあれば、ん?と思うものもある。

性の社会的認知はこの数年でめざましく変わってきた。情報はいつだって「最初から望ましい形」は形成されなくて、時間をかけてやがて「だいたいこの辺が適切な範囲」が作られていく。性発信は今、試行錯誤期だ。と、私は理解している。

大切な情報もあれば人を大いにふり回るものも混在している。見分けるのは、身体や社会構造に時間を割いてきた私でも大変難しい。そして、誰に目を向けて発信しているの?と思うものに出くわすと、中身よりその姿勢に対して腹を立ててしまう。


性教育ってそもそもなんだろう?その定義すらも曖昧な中、「性教育」と銘打つ流れが乱立していないだろうか。



私は女性と子どもを対象にした現場にいて、多様な症状と困りごとを聞く立場にいる。その中で、妊活も一定の割合関わるし産後も引き続き関わることが多い。

妊活は性そのものだ。

だけど性行為について詳しく聞くことはほぼない。いわゆる性行為は「タイミング」という表現を用いる。それでおしまいだ。

これを味気ないと思う人もいるかもしれないけど、これくらい慎重なのが私はすき。心的安全を脅かしてまで、性を掘り下げる場所に自分の仕事をしたくないのだ。



職を離れて自分のことを書くと、私はできちゃった婚で生まれた子どもで、しかも学生結婚の子どもだ。

当時のそれは、本当に大変なことだったと想像する。そのせいか、ただ生を受けただけで罪はないはずなのに、生まれながらに性に対して大変な罪を背負った感覚を持っていた。


私が欲しい性教育は、「ピルが生理痛を楽にする」でもなければ、「ピルが避妊以外にも役立つ」でもない。「プライベートゾーンは大切」でもない。

もっと土台にある「生きていいんだよ」から始まる性教育が欲しい自分の身体はあなた自身のものと、伝えたい。私が持った原罪は、私のせいではなく社会と環境が造ったと思うからだ。


生と性とは一直線で、生きることが土台じゃないかな。
性はあらゆる生の尊厳の一部。ここから始めたい。



何度も繰り返すけど、性について語ることは女性同士でも躊躇うこともある。オープンにする工程は男性よりも、幾重にも扉を丁寧に開けていってほしい。


それは単なる性ではなく、親や社会から植え付けられた「べき」を剥がす行為だ。
ブームが怖いのは、工程を全てすっ飛ばしてゴールに行かせようとすること。
時間をかけていいことを、安易に簡単に扱わないで欲しい。そんなバンジーは不要だと思うの。


でね、私は女性が性を語る風潮はとても歓迎してもいる。
だけど強要することでもないし、誰かの顔色を見て認めてほしいから発信することではないと思っている。話す男性はとことん相手を選びます。
濁された人は、それまでと心得てほしい。

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