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「20%」の必要性

若気のいたり、というやつなのですが、私は大学生時代(もう20年前!!!)とってもとっても嫌いな人がいました。
嫌いになった理由が、同じクラスで発表をしたときに、よくわからない内容で論破されたみたいになったからという幼稚な理由なのですが。
その人と、同じゼミを履修しようとしていたので、履修説明会に出たときにはもれなく遭遇してしまったわけです。
私は、「やだ、この人と同じ空間の空気吸いたくない!」と思って、そのゼミを履修すること自体を辞めました。

この事象を、今、冷静に分析すると。。
「やりたいことをできない(やらない、は自分の決断なのに)理由を相手のせいにする思考(他責)」や「嫌いなものを完全に排除しようとする排斥思考」「自分を被害者に置く思考」などと、ツンツンに尖った自分の形が見えて、穴があったら入りたい気分になります。(恥ずかしい。)
とはいえ、そんな若かりし自分も、今となってはかわいいなと思わなくもないのです。

「20:80(2:6:2)の法則」とよく言いますが、好きな人・嫌いな人の割合にもこれは当てはまると言います。
そりゃ、人間関係のすべてが好きな人だけで占められていればそれに越したことはないのだけれど、そんなことはなかなかないわけで。
20%は嫌いな人はいる。

その人を完全に排除した場合に何が起こるのかというと、人は、残りの80%の中でまた20%を探し出すのだそうです。(しらんけど)
なんとなく、感覚的にこれは「そうだよなぁ」と、私は思えていて。
嫌いだなと思う人が現れても、それほど「排斥しよう」とか思わなくなりました。
嫌いは嫌いだし、嫌は嫌なんですけど。
そこから学ぶものもあるだろうし、必要な20%だ、と。
そこにフォーカスして排斥してをし続けると、どんどん世界が狭くなってしまうので、それってもったいないと思うようになりました。

20%の存在にもそれはそれで意味がある。
「それはそれ」と割り切って、それ以外にフォーカスするというやり方を少しずつで身につけていければ、世界の見え方が全く違うかもしれません。

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