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蜂本みさ「せんねんまんねん」感想


(以下、2023年7月25日にtumblrに投稿した記事です。tumblrがアカウントを持っていないと読みにくい仕様になってしまったため、こちらに移しました)

Kaguya Planetで公開された、蜂本みさ「せんねんまんねん」を読みました。すごくよかった。殿堂入りです。自分のためにそうしておく必要性を感じたので、感想を文章にしました。(以下、ネタバレがあります)

※「せんねんまんねん」は、Kaguya Booksから2023年8月31日に刊行される正井 編『大阪SFアンソロジー:OSAKA2045』(社会評論社)と連動して執筆された作品です。

 一気にひきこまれ、祈るような気持ちで読みすすめ、ああ違う、私は祈る側でなく祈りを託される側なんだ、と気づいて泣きそうになった。まごうかたなき「(2045年の)大阪SF」でありながら、私たちみんなのための話だ。私たちというのは、過去・現在・未来を生きる、すべての人のことです。大袈裟でなく。
 とても蜂本さんらしい(耳の良さや語りの強さ、視点の置き方などの点において)作品なのに、これまで私がふれてきた蜂本作品にはあまり感じたことのなかった読み味だった。SF的な仕掛けの部分もそうなのだけれど、それ以上に、蜂本さんのお話の世界に生きるひととこんなふうにまっすぐに目が合ったのは、というか、目を覗きこみ手を握りしめるようにして語りかけられたのは、はじめてだ。切実さに貫かれる思いがした。じっさい貫かれた。物語から飛びだした鋭い杭が私の身体を貫通し、物語と私を縫いとめた。このさきずっと串刺しのまま生きてゆくことになりそうな気がしている。
 私は人間が好きだ。でも地球が長生きするためには人類なんてさっさと滅びたほうが良いのだろうなとも思っており、しばしばそのようなことを口にしてしまったりもする。(私が書くSFでは人類はたいてい滅びている)
 どっぷり人類に属する身なれど「人類なんて…」などとぼやきつつ厭世家っぽいポーズをとれば、自分をちょっと高いところに置けたような気になれる。そこから「人類」を批判するのはラクでいい。甘くてぬるくて気持ちいい。欺瞞だ。思考停止の責任放棄だ。わかっているけどやめられない。このさきもたぶんやってしまう。
 でも、その回数は今後、減る。確実に減る。だって私は、鶴ちゃんの声を聞いてしまった。
「大阪の人らは焼け野原で食べて寝て働いて、街をつくりなおして、通天閣も元どおりにしました。こないにえらいことができるのに、人間は戦争をよう無くさんほどアホなんか。百年で足りへんなら、もっともっと長い時間があればどないやろ。」
 鶴ちゃんは、責任から逃れようとする私の前に立ちはだかり、人間の良い面を思いださせる。ちゃんと今を、人間を、まっとうしろよ、と叱咤する。諦めるなよ。投げだすなよ。途方もなさに押しつぶされそうになっても。無力感に呑まれそうになっても。お前(たち)ならできるんだから。お前(たち)にしかできないんだから。
 こんなに厳しくて優しい希望の突きつけかたが、背負わせかたがあるのか、と泣きそうになる。でも泣かない。簡単にやり過ごさない。鶴ちゃんが納得してくれる未来に辿りつくため、中継地点を作る人間のひとりとして、自分にできることを考える。行動する。ちっぽけな自分には「えらいこと」なんてできそうにないけれど、それでもだ。
 託された祈りを引き受けた。そのことを忘れないため、ここに書き残しておく。

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入りきらなかった細かい話
・いつからか「推し活」がやたらともてはやされるようになったことを、気味悪く感じていた。その気味の悪さの正体が、「せんねんまんねん」を通じて見えた気がした。蜂本さんは、日常に溶けこんだ違和感を拾いあげて異化するのがべらぼうにうまい。いつも唸らされている。
・若い人たち、小さい人たちにも読んでほしい。一般公開されたら広まるといいな。
・生き生きとした関西弁の語りは蜂本さんの武器のひとつだ。とはいえ、今回出てくる大阪弁は、ご自身の言葉からは相当離れているようにみえる。どうやってインストールされたのだろう。文献以外にも、亀ちゃんのように音声資料にあたったりされたのだろうか。いつか伺ってみたい。
・SFを書く際、心がけていることがある。絶望の物語にしないこと。だけどこれが難しい。「せんねんまんねん」には、こういう希望の示し方もあるのだと教えてもらった。これからSFを書くたび、必ずこの作品を思いだす。

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