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天国インター・ネット地獄篇

笑われるかもしれませんが、
子供の頃、僕が作ったもので世界中の子供が救われたら、と本気で考えていました

いえ、笑われてもいいのですが。

大人になり、現実は非情である、というあの名言が理解出来るくらいには「自分は特殊な人間ではなくただ目敏いだけが取り柄の偽物」と達観したものです。

どちらかと言うと幼少期から僕は同年代より達観していた自覚はあったものの、大人(一般的な成人)になってからはそれを意識的に制御していたように思います。

驕りは回り道だと分かっていたし、
他人を煽る事より他者を受け入れる方が社会的に尊いことだと信じて疑っていなかったのです。

子供の頃と言えば、厨二病、ペルソナ、呼び方は何でもいいのですが、擬似的(似非と言ってもいい)な解離性的人格が自分にはある事を知ります。
常に他者から見られる自分を意識し、
自分を見る自分が存在し、
他人を見る自分が複数存在し、
だからこそ他人からの言葉で複数の意味で傷つくという、至極在り来りな人生を送ってきました。
そしてそれが「病質ではない」という苦しみがあったのです。
いっそ病気であってくれた方がマシだった、と言うと不謹慎なのでしょうか
自分の心でも口に出せば不謹慎になるそうです。
この世界は。

不謹慎は僕の素養です。
立てば害悪座れば不遜
歩く姿は不謹慎。それが僕です。
綸というパッケージはそういう風にデザインしたのだから。

大人になると特典があります
子供の頃大人になんてなりたくないと思っていましたが、
大人にはポイントカードが配布されていて、
早起きしてラジオ体操をしたご褒美のように頑張ったで賞を貯めると、自分を誤魔化して甘やかせる、というズルさを貰えます。

僕はズルい事にかけては多少自信があり、
全人類合わせても、僕のズルさに勝てる人と言うとあまり頭に思い浮かばない程です。
いえ、自分を擁護する事にかけては右に出るものが居ないと言っても過言ではありません。

だからこそ純粋で無邪気な悪意を持った子供は美しいなと思うのです

大人でも子供でも男でも女でも人間ですらない僕は、
不純物が混じった悪意ですら有り得ず、
中途半端に洗剤で白くなった善意を持ち合わせた不完全な概念なのです。

さて、良い感じに気持ちの悪い文章を作ったところで、
最初の話に戻りましょう

「何のために息をするのですか」
と、「何のために子供を守るのですか」は僕にとって同義だと思います。

なぜそんなふうに思うのかと言うと普通の家庭で育ってこなかったからです。

母子家庭。
アルコール依存症で酒乱、男性にもお金にもだらしない母親
ネグレクトと過保護
介入できない市政
閉鎖的な田舎
プライベートの存在しない子供
おおよそ一般的な人間が想像出来ないであろう家の「片付けられ加減」
生まれてすぐに僕を「無いもの」とした父親
それを冷静に普通の事として受け入れた僕という個体。

特別では無い有り触れた児童虐待。
児童虐待ホットラインがこい、とは今になって思うのですが当時はそんなものは世の中に浸透していなかったし、今ほどインターネットも発達していなかったのです。

そう。インターネット。
SNSが始まった時僕は本能的におおよその当たりはつけていました。
これは社会に福音をもたらすし、あるいは復讐の餌にもなるだろうと思っていました。

福祉事業に携わっている方々が日夜従事し、身を粉にして草の根的に世界を支える一方で、
いわゆる「無敵の人」と呼ばれる人達の怨嗟が蔓延るだろうなと。

そしてそれが「多様性」というよく分からないものをよく分からないままジップロックした言葉で冷凍庫に放り込むであろう事も。

僕自身が「無敵の人」になりうるか、という疑問は中学生の頃に自身で考えたことがあります(当時はそう言う呼ばれ方ではありませんでした)が、今でもその答えは変わっていません。

浅はかな復讐ほどお寒いものはなく、スベっている。
ダサいことをする時のルールはひとつ。
自分が悪者になって誰かが救われる場合のみ。
と考えていました。

だから僕は世も恨んでいないし、
なんだったら父親も母親も恨んでいないのです。
自分の親をこういうのはなんですが、
取るに足らない個体が勝手に子供を作って手に負えなかっただけの話で、そんな事は世界に溢れていてそこに固執するのは時間の無駄だと。

それを分かっていたとて、所詮は僕もちっぽけな人間でしか無く、
いつだってそうだった意味を問うものです。

「問う」という事は表現に置いてすごく大切なファクターであると考えます。
同様に根源的な「怒り」も。
問題は何に対して問い、何に対して怒るか。

生まれた時から自身の存在を問うて来ました。
だからインターネットに存在する僕も一体なんのためなのか、という事をよく考えます。
それは観測であり、考えるためであり、答えなんて出るはずもない事を分かっていながら答えらしきものを見つけるためだと思います。
一体何の。
見ず知らずの、どこの誰かも分からない人の死を勝手に悼み、
名前も知らない子供が笑っていればいいなと思うのは何故か
それがどう社会に繋がり、
世界を変えられるのかという事です。

そういう青臭い子供じみた事を本気で考える頭のおかしい僕のような人間だけが排斥され、世界が正常に作用することを願って止みません。
そんな事を考えずとも、人は生きていくことを信じながら。

綸-イト-

人に当たり前にある死や美しさを、 詩や文で紡いでいます。 サポートをしていただければ製作の糧になります。 是非よろしくお願いいたしますm(__)m