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包丁と、私と野菜と

定期的に包丁を研ぎます。開店から使い続けているので、少しずつ短くなって来ているはずです。感覚的にですが、ステンレスよりも鋼の方が減りが早い気がします。私たちのお店ではまちかんの菜切と木屋の三徳が鋼で、ほかのと比べても目に見えて小さくなってきています。

小さくなれば使いにくくなりそうなものですが、そんなことはありません。むしろ、ステンレスより使いやすいのか、スタッフもまず手に取る道具となっています。

これはどうしてでしょう。

購入した時の長さや薄さは、職人がこれだと決めた使いやすい寸法であるはず。にもかかわらず、それより短いものを私たちが使いやすいと感じているなら、包丁の変化に合わせて私たちは体を調節しているのかもしれません。

考えるより前に体が調整してくれる


卵の殻をコンコンと割るとき、1回目の割れ具合に応じて2回目に叩く力を、体が勝手に調節しているという話を聞いたことがあります。つまり、頭であれこれ考えるよりも先に、反省と再試行を指先のみで行っているということ。本当かなと疑いつつも、体感として、充分あり得ることだな、とも思います。

ただ、研いだ包丁の話はそんな短時間での出来事ではありません。徐々に短くなる包丁に応じて行われる体の調整は、時間をかけて手が包丁の先の方まで行き渡っていく感覚なのです。

瞬間的に調節するか、じっくりと調節していくか。時間的には大きな差がありますが、外部の状況に応じて体を調節しているという点で、包丁と卵の話は似ているなと思います。しかも両方とも、当の本人が気がつかぬうちに行われているのも大きな共通点です。

かつらむきの無自覚なストローク

包丁で野菜を切る時、普通に考えれば、まず初めに「脳」から指示が出ます。そして、その指示が「手」に届き、「包丁」という道具を使って「野菜」を切るという目的を達成します。

この包丁を長年使い慣れたものに代えたらどうなるでしょう。きっと「手」と「包丁」の境が曖昧になり、その「手+包丁」でもって「野菜」に接するはずです。

同じように卵を考えると、適度な力で殻を割る目的を達成しているのは「手+卵」だと言えそうです。つまり体の外部との調節を無自覚に行う場合に、同じカギ括弧に括られるイメージです。

では、「手+包丁」と「野菜」との間に無自覚的な調節が起こることはないでしょうか。

使い慣れた包丁で大根を輪切りした場合、ワンストローク目の刃の入り具合に応じて、つぎは若干の調整を加えて刃を落とすでしょう。これは自覚的です。「手+包丁」で「野菜」をこう切りたいなという意図、つまり頭で考える余地がありそうです。

ただ、これがかつらむきになったらどうでしょう。包丁を下から上へ動かす一回のストロークの間に、刃の角度を微妙に調節しているような気がします。気がする、というくらいには無自覚的です。私の印象としての話ではありますが、自分の意思とは離れた「手+包丁+野菜」の振る舞いだと言われても違和感はありません。

モノがあっての「私」を楽しむ


重要なのは、この間にある包丁が新品であった場合、カギ括弧が再び分裂してしまうことです。

分裂しても、もちろん結果的にかつらむきは仕上がるでしょう。ただ失われるものも、少なくない気がします。

例えば、その時々の野菜と向き合う楽しさや、切る作業に伴う心地良さなど。こうした切る作業に派生する効用は、「手+包丁」もしくは「手+包丁+野菜」のときの方が強く感じられそうです。ただ鋭く切れればいいというだけじゃない。それが包丁と長く付き合っていく魅力なのかもしれません。

要は使い慣れた道具っていいねってことね、と言われたらその通りです。おそらくお店のスタッフも、だからこそ短くなった包丁を好んで使うのだと思います。

でも私に言わせれば、そんなの言われなくても知ってるよという人は、よほど感性の鋭い人ではないかと思います。長いこと同じ包丁を研いでは使い続けてきて、私はようやく、こんな感覚が少しずつ分かるような気がしてきたのです。モノとの相互作用のなかでしか、私は立ち現れないような感覚が。

きっとこれから先も、私は包丁を研ぎ続けていくでしょう。それは切れを良くするためだけではありません。野菜との関係がもっと深まっていけたら、そんなことを考えつつ日々を過ごしています。



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