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お店で「働く」という喜び

毎日お店に立っていると、たくさんの楽しいことに囲まれつつも、何だか追われるような気分になることもあります。

それは例えば開店時間。予約が入っていればなおさらですが、かならず間に合わせるようにおかずを揃えます。その日の天気、冷蔵庫の中身、スタッフの人数なども考え、メニューの内容や量も調節します。そして、ようやく開店を迎えたと思ったら、次に考えるのは翌日の仕込みです。

自分でやることを増やしておいて、常にそれに追われているような、客観的に見ればおかしな状況です。とは言え、あまりに詰めすぎると精神的にも良くありません。だからそういうときは、意識の方向をずらすよう心がけています。

つまり、仕込みだけに目を囚われるのではなく、出来上がった料理がお客さまに届く場面を想像します。追われているのではなく、能動的に追いかけているように、イメージを切り替えてみるのです。すると、目の前のやることに大いなる意味が見出され、心がすっと軽くなったりします。

誰もがひとつや二つ、日々のモチベーションを保つための、こんな工夫を持っているのではないでしょうか。ただ正直に言うと、私は最近、このやり方がどうもしっくり来ていないのです。

「労働」して「仕事」もする

いつか読んだ本の中で、労働と仕事の違いについて書かれていました。「労働」は指示どおりに動き、その対価として賃金を得るもの。対して「仕事」は、賃金には関係なく、自ら進んで社会的な行いをすること。たとえば地域の自治会などへの参加などがそれにあたります。

私が仕込みに向かう姿勢は、どちらかと言えば「労働」寄りです。そして、商品を通じてお店の意義を社会に問いかける行為は「仕事」の領域に関わっていそうです。だとすれば、イメージの切り替えによりバランスを保つという状態は、「仕事」としての使命感を確認しつつ、繰り返される日々の「労働」に喜びを見い出そうとしていた、と言うことができそうです。

ただ、この言い換えは綺麗にはまってはいません。当たり前ですが、お店はボランティアではありません。ですから「仕事」とは言え、頭のどこかで利益のことを考えてしまいます。つまり「労働」思考から完全には抜けきることができません。この点が気になり始めた結果、本当にバランスが取れているのか?という疑問が胸の奥でどんどん大きくなってきてしまったわけです。

「働く」主体は人ではない

お店が営利目的である以上、どうしたって「労働」思考に偏ってしまう。かと言って、逆側に引っ張ってくれる「仕事」思考に拘りすぎるのも違和感がある。そして、この事態を放っておけるほど心がタフでもない。

さてどうしよう、と考えたときに、頭に浮かんできたのが、労働や仕事と同じような意味を持つ「働く」という言葉でした。

「働く」は古来、動くという意味だったそうです。例えば『宇治拾遺物語』には「未の時ばかりに、にはかにこの棺はたらく」とあり、棺の中の死者が動き出すときに使われたりしています。

たしかに現代語にあっても、「働く」は勝手に動くイメージがあります。「この機械にはこんな働きがある」とか「重力の働きにより」などは、動こうとする意志が人間の外側にあるような印象です。

もちろん「働く」の主語に人間を置くことはできます。ただ、そのときに意志を持っている主体は100%人間の側なのでしょうか?言い方を変えると、自分の行為が何かの影響を受けた結果かもしれないと感じてしまう時に、私たちは「働く」という言葉を選んでいるような気がするのです。

青菜に動かされる快感

ではお店の中で、私が「働く」と感じるのは、どんな時でしょう。

まず思い浮かぶのは、青菜を茹でる時です。お湯が沸いた鍋に入れたら、菜箸でつつきながら固さと色を見ていきます。自分なりに「よしっ」と思うタイミングがあるのですが、その時間はいつも同じではありません。だからタイマーは使わず、じいっと鍋の青菜を見るのです。

この場を支配しているのは青菜です。青菜からの合図で、私は否応なしに「働か」されます。この瞬間、なぜか私は心地良いのです。「労働」や「仕事」を意識する時とは違う種類の喜びが、全身に漲るのを感じます。

きっと、主語が自分から解放される喜びなのもしれません。だから追われているようで追われてはいなくて、心はすっと軽くなります。もちろん、ずっと「働く」思考に浸っていたら問題でしょう。どんなことだって、やはりバランスが大切です。

ただ「働く」を意識すれば、バランスの取り方はずいぶん変わります。これまでは「労働」と「仕事」を極とする直線上を行ったり来たりして、やじろべえのようにバランスをとっていました。ここに「働く」という新しい極ができることで、直線は面に変わります。行き詰まった時に意識をずらす範囲が、格段に広く自由になります。

お店で私が「働い」ている場面…。青菜以外にだってまだまだ見つかりそうです。「労働」や「仕事」の立ち現れ方にしても、探してみればもっと沢山あるはず。

何か見つかったら、思わず顔が綻んでしまいそう。今よりもっと、お店の中で機嫌良くいられるように毎日を重ねていきたいと思っています。

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