【3分判例】2位:旭川学力テスト事件判決(最大判昭和51年5月21日刑集30巻5号615頁)

国家教育権説も国民教育権説も極端

子どもの教育は,専ら子どもの利益のために,教育を与える者の責務として行われるべきものであるから,教育の内容及び方法については,その実施に当たる教師が,教育専門家としての立場から,決定し遂行すべきものである。
⇒ × この判決は、教育の内容・方法も国会が法律制定を通じて定めることができるとする見解(国家教育権説)も、憲法26条の教育を受ける権利に対する責務を担うのは親を中心とする国民全体であるから、教育内容・方法は教師が担うとする見解(国民教育権説)も、「いずれも極端んかつ一方的であり、そのいずれをも全面的に採用することはできない」と判断した。

学問の自由は、学問研究の自由とその研究結果の発表の自由だけでなく、その研究結果を教授する自由をも含むところ、教育の本質上、教師は、高等学校以下の普通教育においても、教授の自由を有し、自らの判断で教育内容を決定することができるのであって、国が教育内容の決定に介入することは許されない。
⇒ × 同上

憲法第26条が子どもの学習権を保障していることから,教育の内容及び方法を誰がいかにして決定し得るかという問題に対する一定の結論が当然に導き出されるわけではない。
⇒ ○ 同上

国民(特に子ども)は学習権を有する

憲法第26条の規定の背後には,特に,自ら学習することのできない子どもは,その学習要求を充足するために,教育を自己に施すことを大人一般に対して要求する権利を有するという観念が存在する。
⇒ ○

国民各自は,一個の人間として,また一市民として,成長,発達し,自己の人格を完成,実現するために必要な学習する固有の権利を有し,特に,子どもは,そのための教育を自己に施すことを大人一般に対して要求する権利を有する。
⇒ ○

教師の教授の自由

教授の自由の保障は,その沿革上,高等教育の場である大学に限られ,普通教育の場における教師の教授の自由は,学問の自由やその他の憲法上の自由として保障されているわけではない。
⇒ × この判例は、児童生徒は批判能力が欠如していること、学校や教師を選択する余地が乏しく、全国的に一定水準を確保すべき強い要請があることから、普通教育における教師に完全な教育の自由を認めることはできないとしつつも、①教師が公権力によつて特定の意見のみを教授することを強制されないという意味、②教授の具体的内容及び方法につきある程度自由な裁量が認められなければならないという意味で、一定の範囲における教授の自由が保障されると解している。

国の教育内容に関する権限

国は,必要かつ相当と認められる範囲において,教育内容について決定する権能を有し,教育の目的を遂行するに必要な諸条件を整備確立するため,教育の内容や方法について遵守すべき基準を設定できる。しかし,それは,教育における機会均等の確保と全国的な一定水準の維持という目的のために必要かつ合理的と認められる大綱的なものにとどめられるべきである。
⇒ ○

親の教育の自由

親は、子の将来に関して最も深い関心を持ち、かつ、配慮すべき立場にある者として、子に対する教育の自由を有しており、このような親の教育の自由は、主として家庭教育等学校外における教育や学校選択の自由にあらわれるところ、親の学校選択の自由は、特定の学校の選択を強要又は妨害された場合、その侵害が問題となり得る。
⇒ ○

親の教育の自由は,主として家庭教育等,学校外での教育において現れるものであり,学校選択の自由はこれに含まれない。
⇒ × 同上

許されない国家的介入とは?

個人の基本的自由を認め,その人格の独立を国政上尊重すべきものとしている憲法の下においては,子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家的介入は,許されない。
⇒ ○

出題ランキング2位(令和2年司法試験まで)

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