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祖父との思い出

2月19日、(母方の)祖父が亡くなった。86歳だった。

今年はコロナのリスクを鑑み、年末年始の帰省をしないという選択をしたこともあり、祖父に直接会うことが出来たのがお葬式の場になってしまったので、そのことに関しては今でも無理してでも帰省すべきだったのでは?と悔いることがある。

念のため書いておくと、突然の訃報というわけでもなく、寿命を全うしてくれたと思っているが、それでも家族の別れというのは筆舌に尽くし難いものがある。僕自身は変わらず元気に日常を過ごしているが(それ自体が恨めしく思うこともある)、ふと夜中に「もうおじいちゃんはいないのかぁ…」と突然哀しみや虚しさが襲ってくる。

これはその哀しみに打ち克つための回顧録だ。

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僕にとって、祖父は小さい頃からかっこいい存在だった。

まず、祖父は非常にスタイルが良かった。僕の家系は僕も含めて小柄な人が多いのだが、その中で祖父はかなり背が高く、きっと若い頃はモテただろうなぁ〜と思わせる雰囲気があった(実際そうだったと母から訊いた記憶もある)。ただ、威圧感があるような感じではなく、お喋りな祖母に比べると寡黙だったが、口を開くとよく冗談を言っているようなチャーミングな人だった。

一方で、祖父は礼儀には厳しい人だった。自分が当たり前のことを出来てなかっただけなのだけど、小さい頃は人見知りだったこともあり、初対面の人に挨拶をしたり、大きな声でお礼を言ったりするのが苦手で、よく注意された。こういうのは両親から言われると、イラッとしたり意固地になったりするのだけど、なぜか祖父や祖母から言われると素直に聞けていたので不思議だなと思う。

また、僕は両親が共働きだったこともあり、小さい頃から近所の祖父母宅によく遊びに行っていた。特に小学生の夏休みは毎日のように祖父母の家に行っていたと思う。それは祖父母の家に行くとアイスを食べさせてもらえるという理由が大きかったのだが、もうひとつ理由があった。

それは「夏休みの自由研究」だった。

祖父は工場で働いていたせいか手先が器用で、よく夏休みの自由研究を手伝ってもらっていた。僕がつくる自由研究はいつも評判が良かったが、ほとんど祖父のお陰だった。また、これは自由研究だったか工作の宿題だったかは忘れたが、一緒に作った本棚は今も現役だ。他にも祖父は自転車がパンクをしたり、チェーンが外れたりするとサッとそれを直してくれた。

そんな祖父の姿は子どもの僕にとって、とてもかっこよく映った。

後付けかもしれないが、僕のものづくりへの憧憬というか原点は祖父にあったのかもなと最近思うようになった。
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と書き始めると思い出が溢れてきて、また哀しくなってしまうので今日はこれぐらいにしておこう。

何で急にこんなことを書こうと思ったかと言うと、四十九日が経ち一度自分の気持ちを整理したいなと思った(これはほぼ自己満足だが、SNSの活動もしばらく控え目にしていた)のと、お坊さんが「これからも折に触れて、故人の生前の思い出話に花を咲かせてくださいね」というようなことを仰ってくれたからだ。人が本当に死ぬのは忘れ去られた時とはよく言ったものだけど、その言葉通り、僕が生きている限り祖父は僕の中で生き続けるのだと思う。

東京の桜はもうほとんど散ってしまった。

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