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たつけと出会う

現在、石徹白洋品店の中心的な存在となっている「たつけ」ですが、2012年5月のオープン時にはありませんでした。
お店を開いた後に、地元のおばあちゃん、石徹白小枝子さんに作り方を教えてもらったのです。

たつけを教えてくださった小枝子さん

たつけを作り始めたきっかけを下さったのは、学生時代からカンボジアでお世話になっていた森本喜久男さんでした。

私が石徹白洋品店をオープンさせたとき、森本さんが「君のお店を見てみたい」と言って、日本に来られたタイミングで石徹白まで足を運んでくださいました。
そして、石徹白の神社やお世話になっている昭和8年生まれの石徹白小枝子さんのご自宅をご案内しました。

小枝子さんと旦那様の清住さんは、石徹白で使われてきた古い道具を大切にされる方たちでした。
自宅にあったものや、周りからの頂きものの古道具を並べて展示されている私設の「古いもの資料館」を車庫の2階に作ってみえたので、そこに森本さんをお連れしました。


私はすでに何度かお邪魔したことがあったのですが、あまり気にしていなかったものに、森本さんは気がつかれたのです。
それが、資料館の端っこに目立たない感じで掛けてあった「たつけ」でした。

ざっくりとした荒い生地で作られたゴワゴワした黒っぽい「たつけ」。
それを手に取り、お尻周りから股のあたりの構造をパッとみて、
「これはすごい。君はこれを作るべきだ」
とおっしゃったのです。

私は森本さんの近くに寄って、手に取られたたつけを一緒に眺めて、半信半疑。
ん??
何がすごいのだろう??
とハテナハテナ。

「たつけ」は、石徹白の子供たちが民謡の舞台発表をするときに着用したのを何度かみたことがありました。
その頃、まだ自身の子供はいませんでしたが、地域行事に参加させてもらったときに、その姿をみたことがある程度。

子供たちが穿いていたあのズボンの何がすごいんだろう・・・
昔ながらの、神輿担ぎや獅子舞で使われているような古臭い感じがするだけで、私にとって目新しさは全く感じられませんでした。

でもなんだか、森本さんはたつけの作りに興奮されているし、ここのおばあちゃんに作り方を一度教えてもらおうかな・・・
私はたつけの凄さを最初は全く感じずに、これくらいの気持ちでたつけとの初対面を遂げたのでした。

小枝子さんにたつけの作り方を教えてもらいたいとお願いすると快諾してくださり、すぐにお邪魔しました。
小枝子さんはまずは1着、これで作るよー、と手持ちの浴衣の生地を私に渡してくれました。

そして、早速裁断。
彼女は、「最後に作ったのは、もう何十年も前」、と言いながらも
「ここは、・寸・分、ここは、・寸・分じゃ」と寸法はすでに頭の中にあってスラスラと何の迷いもなく教えてくれました。

私は驚きました。何もメモもなくて、どうして覚えていられるんだろう・・・天才なんじゃないか!と本気で思いました(今も彼女は天才だって思っています!というか、余談ですが、石徹白のお年寄りって本当に聡明な人が多い。自分の体を使って生きてきた昔の日本人って皆こういう感じだったのかな・・・と勝手に思ったりしています。そうなんです、石徹白の人々に私が惚れ込んでいるのは、そういう”生きる甲斐性”がものすごくあって、たくましく優しく生命力に溢れているのが魅力なのです。宮本常一の本に出てくる翁や、渡辺京二の「逝きし世の面影」は石徹白のことを書いているみたいって、ずっと思ってきました)。

話を戻しまして、
この裁断が肝でした。

私は、石徹白洋品店を始めるために、28歳から洋裁学校に通ったことはすでに書きましたが、ここで学んだ服を作ることとは全く違った方法で裁断しました。

普通は、型紙を作って、それを布に当てて、チャコで引いてカットしていきます。
たつけは全く違って、浴衣を作る幅の狭い35cm巾をそのまま生かして切っていくだけなので、布を広げる場所がとても少なくて済むし、寸法を測ったらすぐに切っていくことができる。なんて簡単な裁断なのかと驚きました。

これだけで1本のたつけができちゃいます

前ズボンを2枚、長方形でとって、それから後ろズボンと股マチを取りますが、それも驚くことに、二つに折り畳んだまま斜めに切る。
あれあれあれ〜、なにこれ、、、こんなんでいいの???
と私が思っている間に、小枝子さんはあれよあれよとどんどん進んでいく。
この小さな三角形は何に使うの???ん??この大きなのは大きい三角形・・・これがお尻にくるのかな???
パーツを見ただけでは、全く想像できない形に面白さを感じていました。

毎回、1時間から2時間ほどお邪魔して、組み立てていくと、最後にはズボンになりました!
えー??こんなふうになっちゃうの!?
とびっくりしましたが、たしかに、これで「たつけ」は完成しました。

この、小枝子さんによるレクチャーによって、一通りの作り方を学んだ私は、その後、何着も違う寸法で試して作っていきました。
教えてもらったのが、彼女の寸法だったので、小柄な人のものだったのです。

いや、そもそも、寸法は着る人によって違ってよくて、昔は家庭でお母さんやお婆さんが、家族の分を作ってきたので、その家族の寸法があったといいます。

こうして私は「たつけ」と出会い、「たつけ」の作り方を学びました。

今思うと、こうして直接、たつけの作り方を教えていただけたのは奇跡だったし、本当に幸運なことだと思っています。

というのも、日本全国、「たつけ」のような作業ズボンは残っているのですが、かなり前の時代に洋服のズボンに切り替わっているので、実際に作っていたという方はあまり残っていないのです。形が残っていても、作り方を1から10まで直接聞くことができない。そうなると、想像での裁断・縫製となり、最も効率的な作り方かどうかは、実はわからないのです。

私が持っている「日本の労働着 アチック・ミューゼアム・コレクション 源流社 昭和63年」には、日本各地の農作業着の写真や裁断図が掲載されているのですが、これも「推定」と書いてあることが多いし、作り方までは記載されていません。

ということは・・・この頃で、すでにそのような話ができる方も少なかったのでは・・・と想像します。

石徹白はいい意味で「陸の孤島」で(私からしたら褒め言葉です)、いろんな古いものや古い考え方が今にまで残っている。

それが今の時代にとって非常に大切だし、これからの時代に活かされていくことばかりだと思っています。服の作り方だけではなく、保存食の作り方や、山のさまざまな活用の仕方、あるいは、このような厳しい自然の中で生きていくための「心持ち」も・・・。

だから、そういったものも、私は拾い上げて、伝えていきたい。伝えていくだけではなくて、現代的な創造を私なりに加えながら・・・
それが、たくさんの先人らが積み重ねてきたものの上に生かされている、今の時代に生まれた私にできる唯一のことだと思うから。


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