見出し画像

藍染のはじまり

「いつか藍をやりたい。いつか・・・そうだなぁ、藍染って難しそうだから、子育てが落ち着いた50代くらいに始められたらいいのかな。」

そんなふうに、ぼんやりと思っていたのが32歳(石徹白洋品店を始めて1年目、長男1歳くらい)の時のこと。

「いつか藍染をやってみたいと思っていて」

郡上でさおり織を趣味でやっていらっしゃるSさんに雑談の中でちらっと話したのが、確か次男が生まれてすぐだったから、33歳のこと。手織りに興味を持って、Sさんのさおり織ワークショップに参加したのがご縁で、ちょこちょこ会っていて、ちらっとお話ししたのが大きな契機となりました。

「私、50年も藍染をやっている人を知ってるよ!しかも畑で藍を育てるところからやっておいでたよ。紹介してあげる」

ええ??50年も藍染をやっている人が身近にいるなんて!?と驚いているうちに、彼女はその方の染めた藍染の暖簾を見せてくれました。それはそれは感動するような力強い藍の絞り染めの作品でした。(私はあまり物欲がないのだけど、彼の作品を見て何年ぶりかに「本当に欲しい」と思う衝撃を経験しました。)

私は軽い気持ちで「藍染をいつかやってみたいなあ」と思っていたのだけど、彼女があまりにも前のめりに、私の話を聞いてくれて、紹介してくれると言うものだから、「ぜひ、お願いします!」と私も同じく前のめりになっていました。

数日後、「紹介するから、一緒に行こう」と誘ってもらって、まだ小さな次男を連れて彼の自宅にお邪魔しました。

小柄の70代の男性。Sさんが普段からしているような感じで「これ、おかず作ったから食べてね」と手作りのお惣菜を渡して、「おぉ、いつもありがとう」と微笑んで受け取られていました。2人の間に親密な空気を感じて、親しい大切な方を私に紹介してくださるのだな、と安心感と感謝の気持ちに包まれました。

「それでね、前話したように、彼女が平野馨生里さん。石徹白に移住して、たつけっていう昔からの服を作りなれるの。藍染をされたいっていうから、Tさんをぜひ紹介したいって思って」

Sさんは、はつらつとした笑顔で、私のことをTさんに説明してくれました。私は「いつか藍染をやってみたい」というぼんやりとした気持ちではなく、石徹白移住の経緯から、たつけを作っていること、そして、昔の服がほとんど全て藍染でそれには理由があるだろうから、自分自身で藍染をやっていきたい という話を熱心に語っていました。

今思えば、その場の雰囲気に乗って勢い余って情熱を伝えたような形だったように振り返っています。

Tさんは私の話を真剣に、温かな面持ちで聞いてくださっていました。が、柔らかな表情の奥に光る瞳は何を考えておられるのか、鋭い目線、厳しい眼差しを感じていました。

「藍染をやりたい若い人は大勢おる。でもなぁ、難しい。それで食っていくのも厳しい。本当にやりたいと思ってるの?」

この時、私は彼の言っている本当の意味を分かっていなかったのだと今になって思うのだけど、難しいこと、厳しいことと言われたから「では、やめておきます」とも言えず、とにかく目の前に藍染の師がいて、話を聞いてくださって、藍染を教えてもらえるチャンスがあると思うと、前に前に私の気持ちは進んでいったのです。

石徹白だからできる「たつけ」を作ること。それを、この土地で先人が行ってきた藍染を復活させてやっていくこと、それによって石徹白洋品店の事業の内容を充実させていきたいこと、難しくても厳しくても挑戦してみたいこと。そして何より、藍の色が好きで、彼の作品に感動したこと。とにかく私が持っている全ての言葉を使って、気持ちを伝えました。

Tさんはすでに藍染はやめていて、藍甕はあるものの空っぽの状態。こうして藍染を学びたいとやってくる人はこれまでも何人もいたけど、全て断っていたそうです。

「Sさんの頼みは断れんなあ」
TさんはSさんが熱心に私のことを話してくれることで、私に藍染を教えることを引き受けてくださったのです。

私は飛び上がるほど嬉しくて仕方ありませんでした。藍染をやりたいとぼんやり思っていたけど、現実になるかもしれない!!と喜びに浸っていると、Tさんは言いました。

「ではまず種を蒔こう。藍を育てることから始める」

お、おぉ、そうだった、この方は藍を育てるところからやられるのだった。で、できるかな、私に。でもやってみよう・・・。畑初心者の私はちょっと不安も感じましたが、とにかく気持ちは前のめり。早く栽培したいと心は浮き足立っていました。

「種はな、わしが栽培しなくなってから、Hさんという染織りをやっている若い人に頼んで、種をつなぐことをやってくれているから、彼女のところに行って、もらいに行こう」

なるほど・・・種は毎年更新しないといけないから、毎年育てなくちゃならないんだ・・・
本当に何も知らない私は、種が買えないこと、つまり自分の手で育てて種を取らなくてはならないことに少し驚きを感じました。それくらい、何も知らない状態で、藍を始めたいと思っていたのです。

「自分で育てたもので染めないと、自分の色が出ない」

Tさんはそんなふうにもおっしゃっていました。藍染をやったこともない私はその時、このことがどんな意味を持っているか、あまり考えられませんでしたが、それは今になって、少しだけわかるようになってきました。


さて、私はTさんとHさんのご自宅兼工房にお邪魔しました。Hさんは沖縄で染織りを学ばれてから独立し、手織りで素晴らしい作品を作られている、私より少し上の素敵な女性でした。ご自身で藍染はやっていないけど、Tさんがまだ藍を建てていらっしゃる時に、時々藍染をしに行っていたご縁もあって、Tさんが藍を栽培されなくなるということで、種を託されたそうです。

ご自宅の庭の畑に、種とりのための藍を毎年栽培されてもう何年も経つということで、Tさんの種を守り継がれていました。

Tさんは自身が繋いできた種をいつか誰かに手渡すために、Hさんに託したのか、次の世代のことを考えられていたのか。直接そのことはまだ聞いていないけど、どうにかして種を繋いでいこうと思われた背景を、今度お邪魔した時に聞いてみようと思っています。

Tさんは、藍染をもう誰にも教えない、と頑なに断り続けていたと聞いていたけど、実は、誰かに繋いでいきたいと思われていたのかもしれない、そんなふうに、藍の種を手にすると思ったのです。そして、引き継いだ者としての責任と、引き継がせてもらえた感謝を感じずにはいられません。

種がなければ何も始まらない。種があれば全てが始まる。

今年、藍を始めて8年目。重ねれば重ねるほど、この出会いの奇跡とありがたみを噛み締めています。


こうして、SさんによるTさんとの出会いによって、全てが始まったのです。この続きは、次のnoteに書きました。よかったら読んでみてくださいね。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?