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フィールドの外で奇跡を起こしたのは誰か:日本未公開野球映画を観る(22)

Full Count(2019)

※「日本未公開野球映画を観る」カテゴリーの作品については、基本的に結末まで紹介しています。ご了解のうえお読み下さい。

これでもかと続く試練

 日本で生活する者にとっては異色にも見える野球映画だが、アメリカには似たような作品がそこそこある。どういう意味で異色なのかはおいおい説明していきたい。
 少し長くなるが、奇想天外とも言えるストーリーをまず紹介する。
 南部ジョージア州のワトキンズビルという小さな町の農場の一人息子ミルトンは投手として非凡な才能を持つが、父は農場を継ぐことを求め、大学からの奨学金のオファーにも耳を貸さない。ここから、野球をさせないという抑圧や、野球を進路に選ぶかどうかがテーマになるのかと思いきや、そうではない。父はやがて息子が夢を追うことを認め、ミルトンは晴れてマウンテンビュー大学(架空)に進む。
 プロスペクトとして迎えられ前途洋々と思われたが、初戦での先発が決まると、彼を目の敵にして挑発していたエースのライアンが錯乱の末に処方薬を過剰摂取して急死。直後にミルトンの父も心臓発作で急死の報が入る。
 帰省して葬儀の後、一人になりたくてトラックを運転していたミルトンは交通事故で重傷を負い、右手のケガでもう野球はできないと告げられたうえ、歩いていた女性に瀕死の重傷を負わせて加害者にもなってしまう。大学をやめて母と二人で農場をやっていこうとするが、長く続く干ばつのため多額の負債があり、種を仕入れることすらできない。前半はこれでもかと不幸が続く展開。

明らかになる真相

 農場の求人の看板を見てデービッドと名乗る男がやって来る。無給でいいからと働く彼は壊れた農機具を簡単に直すなど万能で、農場は好転し始める。
 事故の被害者が死亡してミルトンは収監されるが、面会に来たデービッドが立ち会いの看守を追い払ってミルトンの両腕をつかむと、記憶を失っていた事故のときのことを思い出す。あの日ミルトンは運転中にパトカーの警官に止められ、車外に出されて殴られた。警官はミルトンをパトカーに乗せて暴走した挙げ句に女性を轢いてしまったが、ミルトンにさらに暴行して意識を失わせたうえで、彼が事故を起こしたように見せかけたのだった。
 着任して間もないこの警官は免許証のミルトンの名前を見て暴行に及んだ。「おまえが息子を殺した」。エースのライアンの父親だったのだ。
 嫌疑が晴れて釈放されたミルトンに、デービッドは「やり残したことがある」と言ってまた両腕をつかむと、右手のケガが癒えて再び投げられるようになるというラスト。

奇跡を起こす者

 デービッドは何者か。彼が寝泊まりしていた小屋に書かれていた「John 10:10」や、去った後に残されていた「John 3:16」という文字が示している。前者は「ヨハネによる福音書」10章10節「盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである」、後者は同3章16節「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」のことである。
 本作はクリスチャン映画であり、デービッドは奇跡を起こせる者である。
 こうしたことは途中まで明確にならない。交通事故を調べた保安官が「どうして善良な人々がこんな不幸に見舞われるのか」と言ったり、「神が与えた試練」といったセリフはあるものの、アメリカ人のふつうの会話に出てくる範囲だろう。「いかにもクリスチャン映画」という体は取らず、自然の厳しさに苦しむ農民の描写は『北の国から』のようでもあり、事故の真相解明のくだりは2時間ドラマのようでもあり、エンターテインメント性に富んでいる。無茶な展開や突っ込みどころは多々あるにせよ、退屈することは決してない。クリスチャン映画としての評価も賛否両論のようだが、神を信じて逆境に耐えればやがて奇跡が起きるというメッセージをこうした形で伝える作り方は興味深い。
 また、南部が舞台で主人公は白人一家なので保守的な雰囲気は当然あるが、事故の真相を明らかにする誠実な保安官と教会の司祭は黒人で、人種的な配慮もなされているようだ。黒人の司祭といえば、前回紹介したWar Eagle, Arkansasでも南部の小さな町の教会の司祭が黒人で、だから白人があまり教会に来ないとか、その教会に主人公ら二人が出入りしていろいろ手伝っているという描写があった。こちらは配慮というより実際のエピソードだろう。
 一方で、息子を自殺同然の形で亡くした「犯人」警官の心情が慮られることはない。チームメイトによれば、ライアンは「怒り」を抑えられないという問題を抱えており、むしろ「病い」だったように思うが、キリスト教において自殺が「罪」とされているからか、親子とも完全に悪役で、容赦ない感じだ。
 野球の描き方には残念ながら「おざなり感」が否めない。野球映画の範疇には入れていいだろうが、フットボールでもバスケットでも代替可能な、単なる背景である。「奇跡」は球場のフィールドの外で起こっており、ミルトンが投げられるようになったラストにも野球をするシーンはなかった。
 こうした作品が日本で公開される可能性はゼロに近いが、アメリカ野球はこのような文脈においてプレーされている。

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