150億年前から決まってた私のエール
宗教は面白い
どのような宗教においても誰かの心の支えになっているからだ
それは外せないPKのシュートの前、失敗できないプレゼンの前、妻の出産を廊下で待つとき、急行に乗っているのに腹痛に襲われたとき、あるいは大学入試の合格発表前などに顔を出す
私は藁にでも縋り、神サマ仏サマ数多の神々に祈りを捧げる瞬間がある
実際私は仏教徒である らしい
だけどもどんな考えなのか知らない
お寺も神社も一緒くたにして楽しく観光するけど、美しい教会のある土地ならばそこに足を踏み入れる
いわばカレーうどんのような教徒だ
そんな私でも明確に信じていることがある
数年前、尊敬する友人が私に丁寧に説明してくれた
水の入ったコップを倒したら水がこぼれるという結果が容易に予測できるように、
約150億年前のビッグバンという衝撃が起こった時からこの世の全ての出来事が決まっている。
私はこの事柄に救われ、囚われ、生きている
すべてのことが決まっているなら、不安に思うこともない
全部決まってるからもう新しいことを始めようと何をあがこうと私もあなたもこの人生は変わることがない
ということを言いたいわけではない
決まっていることだとしても私にはわからないし、わからないから不安だ
でも私にはコップの水をこぼすこと程度あるいはもう少し大きな挑戦でも全ては予測できなくとも引き起こすことができる
だから私は小さなビッグバンを日々に起こす
私が豊かになれるのは私にわかることだけだ
150億年前から決まっているかもしれないが、ビッグならぬスモールバンが私の日々を豊かにすると信じている
2年前にピアノを始めれば今日には4曲目を練習する
ピアノを弾く日々は豊かな私の日常になって溶け込む
それが私の宗教のようなものだ
決まっていたことなんだと思い、後悔がない
私の潔さはそういった思考からきているのだろう
不安だろうと決まっていたことなら仕方ない、明日からもがんばろう
でも明日の私のことももう決まっているから大丈夫
そう思える
これだけメンタル強そうな思考でも容易に傷つくときがある
何気なく生きているだけで人は人に傷つけられるし、人を傷つける
SNSの空中に漂うちっぽけな一つの投稿ですら私に罪悪感と劣等感を重ね着させる
一対一で明確に私に向けて突き立てられた言葉たちがまだ身体に刺さっているのにも関わらずだ
私は言う
お前が生きない私の人生においてお前がビッグバンを起こそうとするな
私の人生だ
この気持ちは私が人の意見に耳を貸さず、横暴な態度を取るということを助長しているものではない
誰かに傷つけられ、何かを変えなくてはならないとあせる誰かがいるならば大丈夫と私は手を取る
例えば、化粧を練習し始めるにしてもあなたが誰かにブスと言われたことをビッグバンにしないでほしい
私が綺麗になりたいと思ったからと、あなたが主体のビッグバンで幸せになってほしい
そうすればあなたが綺麗になったとき思い出すのはその誰かの評価ではなくて、あなたの決意と頑張った日々だ
綺麗になるという結果が同じでも、あなたがあなたを抱きしめられるほうがいい
綺麗にならなくたって、化粧は向いてなかったなあとか飽きた〜って涙なく次の目標に取り掛かれるならそれでも最高じゃないか
無数のビッグバンを渡り歩いて、貪欲に無数の幸せを勝ち取る
幸せなんて大層な言葉ももういいね、決まってる人生楽しく生きよう
私のあり方だけど、これを読んでいる優しい隣人にもこうあってくれたらいいなと思っている所存です
人は誰かの悪口を誰かが何かを始めて楽しそうにするたびに思いつく
でもそんなのはまた新しいビッグバンで吹っ飛ばしていこうぜ〜〜〜
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