白梅の夢

 ――まいった。 
 うっうっと丸まって嗚咽を繰り返す塊に目を向け、草介は嘆息した。
 四半刻ほどまえからずっとこの調子なのである。この調子――というのは、すこしまえに草介が長屋を借りた大家の末娘のことだ。これまでも何くれとなく部屋に上がり込まれて困っていたが、今日は腰高障子を閉めるなり、頬を真っ赤にしてわぁっと泣きだした。
「もう茶木のおうちにはかえりません! かえりませんものっ!」
 煎餅布団が適当に畳まれたあたりにうずくまった紅は、肩を震わせてしゃくり上げている。どうやら父親と喧嘩をしたようだ。途切れ途切れにこぼれる言葉から察するに、父の金吾が目を離した隙に、剪定途中の梅の樹に勝手によじのぼって、まっさかさまに落ちたらしい。偶然、そばで作業をしていた徒弟が受け止めたので、大事には至らなかったそうだが、金吾は激怒して、紅に拳骨を落とした。そのときに、もう帰ってくるなとか、もう帰らないとか、言われたり言ったりしたそうだ。
「とうさまなんてきらい……っ、きらいだも……紅はそうすけさんのおうちの子になるもの……っ」
「それは堪忍してや」
 この歳でもうすぐ八つになる子どもなんて欲しくない。十八で横濱にやってきた草介はすこしまえに十九になったばかりである。
 ううー、とまた泣きだしてしまった少女を扱いかねて、とりあえず絵描き用の机の前に戻る。面倒くさい。なぜ、何部屋もある長屋のうちの草介の部屋にわざわざやってきたのか。
 すぐに迎えにくるだろうと踏んだ金吾がなかなかやってこないことにも困っていた。もし、適当に遊ばせたあと茶木の屋敷まで送ってくれると考えているのだったら、いい迷惑だ。あのおおらかそうな夫婦は、万事そのように考えていそうな節がある。
 固まりかけた絵具を溶かしながら、草介はうずくまった少女の丸い背を見た。
「……そろそろ帰ったらどや」
「いやです!」
 ふだんは素直な気質なのに、紅は一度言い張ると結構、強情である。
 草介は子どもの機嫌を取るのも、子どもをあやすのも得意ではない。匙を投げ、描き途中の絵に筆を入れ始める。どうせそのうち飽きて帰ると言い出すだろう。そう考えたのだ。
 はじめて会ったときから、草介は紅が苦手だった。
 この少女は生来の屈託のなさで、ずけずけと境界線を踏み越えてくる。たとえばこの部屋の、破れかぶれの腰高障子の内側とか。いつもきちりと閉めて、なにも入ってこないようにしているのに、紅は勝手に障子を引き開けて、きづけば中でくつろいでいるのである。邪険に扱っても、さっぱり気にしない。さっそく住む場所をまちがえた気が草介はしている。
 ――にいさま。草介にいさま。
 草介にも昔、これくらいの歳の妹がいた。
 草介よりも二歳下の、やっぱりすこしお転婆な娘だった。
 ――梅の花をみつけたの。にいさま、描いて。
 鈴を転がすような舌足らずの声はまだ記憶の底に残っているが、肝心の妹の顔は白く霧がかった向こう側にあって、もう鮮明に思い出すことはできない。
 妹は今の草介の二倍ほどの歳を生きて、流行り病で露落ちるように死んだらしい。草介が「かえる」前のことだ。もうひとりの妹の美影は、かえってきた草介を時川家に迎え入れてくれたが、自分がいた頃に生まれてもいなかった、今は五十路に近い「妹」に対して兄の情が抱けるわけがない。
 いつの間にか紅は泣き止んでいた。
 正確にいえば、泣き疲れて寝入ってしまったらしい。ひとまずもとの静けさを取り戻した部屋にすこしばかり安堵して、草介は息をつく。さっきは泣いていることに気を取られてきづかなかったが、紅はちいさな手に白梅の枝を握りしめていた。腕を擦りむいている。樹から落ちたときに怪我したのか。血は固まりかけていたが、結構痛そうである。
 腰を浮かしかけて、草介ははたと我に返った。
 べつに放っておいてもよいのである。
 大家夫妻の心証はわるくなるかもしれないが、追い出されたら、また別のところに住めばよい。どうせ、草介の持ちものといえば、絵の道具一式くらいだ。それを抱えて、いつでも、どこへでも気が向くままに流れていけばよい。ここは草介にとってかりそめの居のひとつに過ぎない。そう割り切ってしまえば、気楽だ。
「紅」
 気楽だ、と思っていたのに、結局、草介は紅の肩を揺さぶった。
 肉付きのうすい子どもの肩は冷えていた。
「そろそろ起き。風邪ひくで」
「んん……」
 紅ははじめむずがるようにかぶりを振った。
 構わず揺すっていると、しぶしぶ身を起こして眠たげな目をこする。寝ているうちに怒りも飛んでいったのか、来たときよりもおとなしく、どうしてこの部屋で寝ていたのだっけ、みたいな顔をしている。
 草介は紅の手を引いて、入口のそばにある水甕のまえの上げ框に座らせた。柄杓で汲んだ水で腕を洗う。あんまり考えていなかったせいで、出入口が水浸しになった。腕だけでなく一緒に濡れた足をぽかんと見ている紅の横で、外でやればよかった、と後悔する。慣れないことをするからである。
 この部屋には傷に塗る軟膏のたぐいもないので、清めた腕にせめて手巾を巻いてやる。紅はふしぎそうな顔でなされるままになっていたが、草介が長身をかがめてちいさな腕に手巾を結ぶと、瞬きをしたあと、ぱっと笑顔になった。
「ありがとうございます!」
 手巾を結んだ腕を目の高さに掲げて、「わあ、ちょうちょ」と歓声を上げる。紅はちょうちょ結びが気に入ったらしい。腕をひらひら振って、ちょうちょが飛んだ、と笑い声を立てる。草介は上げ框に座る少女の隣に腰掛けた。擦りむいたほうと反対の手には、まだ白梅の枝が握られている。
「その枝、君がとったんか」
「はい」
 こっくりと紅はうなずいた。
「おばあさまがお好きな白梅だったから。でもとうさまにしかられてしまいました……」
「そか」
 俯きがちのまるい白梅は微かな芳香を放っている。日が暮れ始め、早々に薄闇に沈んだ部屋のなかで、紅が手に持つ白梅の枝はほのかに輝いて見えた。すん、としゃくり上げると、紅は手にした白梅をたからもののように胸に抱きしめた。
「帰るか」
「……はい」
 ちいさな身体を抱え上げると、素直に草介の首に腕を回してきた。肩に触れたときはつめたい、と思ったが、抱え上げると存外熱い。
 ふいに、幼い頃にもこんなことがあったかもしれない、と思い出す。にいさま、描いて、と梅の花を差し出してきたちいさな妹を、こんな風に抱き上げたことがあったかもしれない。あるいはそれらすべては、自分の願望が見せるまがいごとなのかもしれないけれど。
 白梅の澄んだ香りが、虚実ないまぜになった薄闇に溶けていく。それは苦いようで、どこか甘くも感じる郷愁の念をひとすじ草介の胸にうずかせて、消えた。

 ・
 ・

「草介さん。草介さんったら」
 肩を揺さぶる手にきづいてうっすら目をあけると、思いのほか近い場所で紅が草介をのぞきこんでいた。「ちかい」と抗議の声を上げる。
「やっと起きましたか」
 紅のほうはさっぱり気にした風もなく、持っていたはたきで鴨井のあたりをはたく。
「あなたときたら、放っておくと日がなぐうたらしているんですから」
「君、なにしとんのや」
「掃除です。こんなに薄暗くて埃だらけの部屋にいたら、身体を壊しますよ」
 相変わらず紅は無駄に世話焼きである。
 袖をたすき掛けにして、二本のおさげをまとめた少女は、ねずみか栗鼠のようにせっせと動き回っている。いつの間にか肩からずり落ちていた羽織をかけ直し、草介はあくびをした。
 ずいぶんとなつかしい夢を見た。
 机のうえに梅の枝が何本かまとめて置かれているのを見つけ、「……このせいか」とつぶやく。梅の香りは古い記憶を呼び戻すことがあるという。
「あぁ、折れてしまったものをもらってきたんですよ」
 草介の視線にきづいたらしく、紅が説明した。はたきを置いてかたわらに座った少女が「一枝いります?」と尋ねる。白い花びらが幾片か机のうえに落ちている。それをひとひら摘まみ上げると、「いや」と草介はひっそりわらった。
「もう十分たのしんだし、ええわ」


 白梅の夢/了

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この物語は、「乙女椿と横濱オペラ」をもとにした短編になります。水守糸子個人の創作物になりますので、出版社へのお問い合わせはお控えください。

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