クラムボンさん

今回お話を伺ったのはクラムボンさん(30代)

ニュースやメディアでの情報を真に受けて信じてしまう人は何も考えずに人生を送ってきたのではないかと感じるのですが、どう思いますか?(トモヤさんからの質問)

自分のことを疑ったことがないのかなという気はちょっとする。ニュースを信じるかどうかに限らず、自分の正しいと思っていることにすごく自信を持っている人っていると思うんだけど、それが上手くいっていないパターンがそういうことになるんじゃないかなって思う。

ある種自分のやることに自信を持ってやろうと思ったら、自分のやってることって正しいと思っていないといけないと思うんだけど、ニュースとかそのまま信じてしまう人はそういう部分の悪い出方なんかなと思っていて、自分の信じたいものとか都合のいい話を聞いたらやっぱりねっていう感じで。ただ、多分そういう人も別になんでもかんでもそういう風に信じているわけではなくて、多分そのニュースとかが自分の信じたい形になってるものに対しては特にそうなんだと思う。

例えばコロナみたいな病気が流行った時に、若い人は全然感染しないですよっていう話が何の根拠もなく流れてきたとして、自分が若くて大丈夫なんだと信じたいってなった時にそれを割と疑いなく信じ込みやすいとか。逆に若い者も油断したら駄目みたいなことを言っている人がいたら何だこの人ってなるかもしれない。コロナとかで妙な噂を信じ込みやすい人がいたとしたら、そういう自分の欲しい情報に対する思い込みが特に強烈っていうことなんかじゃないかな。

常に正しい判断ができる人、常に間違った判断をする人っていうのがいるわけではなくて、自分の欲しいと思っている情報がある。これはすごく繊細だからあまり言いづらいけど、今ロシアとウクライナがしている戦争にしても、多分人ってこういう情報が欲しいとかこういうニュースが飛び込んできて欲しいって思ってる形ってあると思っていて、そういう時に人はすごく騙されやすくなっているんじゃないかなと思う。

それは僕もあるし、やっぱりニュースとかをざって一覧で見た時にこれは読みたい、これは読みたくないなっていうのは思うけど、それはある種自分で受け入れられるものと受け入れられないものを選んでるってことなんだろうなっていう意識は持っているって感じかな。

特にそういう政治的なニュースだと多いと思うけど、自分の政治的信条に沿っているニュースっていうのはパッと目に入ったら読もうかなってなるし、合ってなければなんだこのニュースしょうもないなってなるし。それはある程度自分の中で選んでいるんだなっていう意識を持っていればまだマシかなと思う。これは自分にとって不都合だから読みたくないんだろうなって認識は一応する。

今は何をされている方ですか?

教職。中学生に理科を教えています。教師になったのはそんなにすごい理由があったわけではなくて、高校を卒業して大学を受験するってなった時に文系か理系でいったら理系。研究系の分野とか工学系も多少興味はあったけど、別にはっきりと何かやりたいことがあったわけでもない。で、両親が教師だったから教師もありだなと思って、結局いくつか大学を受けて教育大受かったから教育大行くかってくらいの気持ちで大学に入った。

当時も教育関係ではない仕事に就職した人もそれなりにいたし、他の道もあったかもしれないけど、卒業するちょっと前に実習に行った学校の先生から来年から講師として入れる人を探してるって言われて、それでじゃあ行きますって言ったのが教師になった経緯。

自分より若い人と喋ったりコミュニケーションできるっていうのが一つの魅力だなって大学生の時に考えていた。何か違う職場だったら年上の人とかずっと固定された人とかになると思うけど、学校の生徒ってその反対で、そういうところは面白いかなと思ってる。あとは単純に勉強とか分かりやすく教えられたら面白いなっていうのは自分に合ってたかな。

ーなぜ分かりやすく教えられたら面白いのですか?

それ以上の何故は結構難しいけど、何かそういう風に人に上手く説明してわかってもらえたら自分が嬉しいみたいな、そういう感覚はあったかな。何か特に劇的な経験があったわけではなくて、何となく自分の感覚としてそういう面白いっていうのが漠然とあった感じかな。

ー教え方は生徒によって変わりますか?

実際授業は1対30だから一人一人に合わせてその場で変えるっていうのはなかなか難しいけど、でもやっぱりどういう形で言われたら理解できるかっていうのは一人一人違う。例えば三角形の面積を出しなさいって言われた時に、『底辺×高さ÷2をするんだよ』って教えてもらった方がパッとできる子もいるし、『これは四角形の半分の面積を出しているんですよ』って言われた方が理解できる子もいる。その辺りで文系理系の違いっていうのがあるんじゃないかって話を聞いたことがあって、文字で言われた方がわかりやすい人と図形で教えてもらった方がわかりやすい人。ただこれは根拠のある話ではなくて、その話をしてた人の感覚として聞いただけだけど。

ーお仕事は楽しいですか?

楽しいところもあるし、それ以上に大変なところがいっぱいあるなっていうのが印象かな。人相手の仕事だし、僕は特にそういう人相手の計算は苦手だから、ここでこうしたらこの人はこう動いてくれるだろうとか、ここでこうした方がこの人にとっていいだろうって考えることは僕の苦手分野。特に小学校中学校っていうのはそういう場だからやっぱり凄く難しいし大変だなって思う。

ー生徒と関わるとき、自分の中の軸みたいなのはある?

基本的には僕なしでやっていけるならそれでいいなって思ってる。教科を教えることに関しても生活指導的なことに関しても、別に僕が何もしなくてうまいことできたら成長できたりするならそれでいいんじゃないかって思う。どこまで放っておいてよくてどこからは助けた方がいいのかっていうとそれはかなり難しいと思うけど、できるだけ放っておきたいと思う。

別に失敗したらいいって思っていて、人生台無しにするような失敗はしたらいけないけど、そうじゃないなら中学生くらいの内に大失敗しといた方が良いんじゃないかなって思う。何か失敗したって思うことなく大人になった人の方が大人になってから大変だと思うし、早い内に失敗した方が良いと思ってる。

僕が自分を振り返った時、中学校の時に失敗していて、いまだにその部分はある種のトラウマでもあるし、でも何か自分の人格形成の基礎的な部分だとは思う。

ーどういう経験ですか?

中学校の時、傲慢までとは言わないけど割と自分勝手な人やった。卓球部だったんだけど、周りの卓球部の子に『あいつ自分勝手な奴だ』って感じですごい嫌われてるぞっていうことを、ある時突然顧問の先生に教えられた。その時は何でそんなことをわざわざ言われないといけないんだって思ったし、先生も別にそんなことわざわざ教えてくれなくてもいいじゃないかって思ってた。でもそれと同時に、自分のこういうところが人に嫌われるんだなとか、こういうことで人は『あいつ嫌だな』って思うんだなっていうこと学んだ。

それまで自分が嫌われるような人間だなって思っていなかったし想像もしてなかったけど、自分が嫌われるところのある人間なんだなっていうことを学んだかな。だからそっから先っていうのは自分の中のそういう人に嫌われやすそうである部分を切り落として切り落として、そうならないようにっていうのをかなりしてきたっていう意識が自分の中にはある。やっぱりそれは今の自分を作ってる一つの経験かなって思う。

ー嫌われる部分というのを言葉にするなら?

その時は僕のどこがそんなに駄目でしたかっていうことを顧問の先生に聞くとか、そんなに大したことではなく、誰かに何か教えてもらった時に何となく態度が悪かったとか、何かの時に返事をしなかったとかそういうことだった。だけど、具体的にそれだけをしないようにしようって思ったっていうよりは、常に自分の行動の中に人に不快感を与えるような部分が何かないかっていうことを気にするようになった感じかな。自分の中ではそこを境に変わったと思う。

ー自分を変えることに対しての辛さなどはありましたか?

しんどいなっていうのは割と常に思うし、今でも別に全然思う。ただ、20歳超えた頃か働き始めた頃から、多分これを気にすることをやめたらそれは自分の生き方ではないなって思ったし、気にするのをやめることは多分できないなと思う。一度気になってしまったから、それはもうどうでもいいやとは思いづらいなとなったかな。それを気にしないようにするのはもう無理だと、一生付き合うしかないなっていう風には思っているかな。

まあ、言ってしまったら自分の性格みたいになっちゃってるから、余程何かが起こらない限り変わらないのじゃないかなとは思う。だから、ある種諦めてる部分でもある。でも逆にそういうところに気を使わない人を見ると、まあひょっとしたら全く気を使えないよりはこっちの方が良かったかもしれないと思う。だからあの時の顧問の先生は良くぞ教えてくれた、と個人的に思ってる。

ーそれまではどういう人でした?

学校での評価としては優等生だったよ。自分でいうのもあれだけど、勉強もそれなりにできたし、校則とか破ったりするわけでもなく、先生に対して反抗的にしたりするわけでもなかった。ただ、自分が人に不快な思いをさせるかもしれないという意識は全くなかったし、自分が何か嫌われるような人になるなんていうことは想像しなかった。だからそういう意味では傲慢かなと思う。

ー直接的に何か人から言われた部分はありますか?

面と向かって直接的にっていうのはないかな。生徒にはあるよ。きしょいとか死ねとか、それはいくらでもある。当然対人関係としては相手が先生だろうが誰であろうがきしょいとか死ねとか言ったらあかんし、そうなったら「誰に向かって言ってるんだ」って言うし黙れよとは思う。けど僕らは仕事だし、生徒にそれを言われたら何でそういう風に言ってしまうのかって言うことをやっぱり考えないといけない。

当然一人の人間としては不快だけど、コンビニのバイトをしててお客さんに死ねと言われたのとは違う。コンビニのバイトをしてて言われたんだったら全く気にする必要はないし、なんなら訴えたらいいと思う。教師だって人間なわけだからそれはたとえ子供であろうと許される言動ではないし、教師だから死ねって言われても我慢しないとあかんとかは全くおかしいとは思うけど、一応そこで仕事をするものとしてはその向こう側を考えないといけない。それはあかん、そういうことを言ったらいけないんだっていうことを教えてあげないといけない。

それは色々パターンはあるけど、当然その場でブチギレしてあげるっていうのは一つだし、逆にはいはいって言ってあげるのも一つだし、そんなこと言うなよーってやってあげるのも一つだし、それはその場の感覚で使い分けるかな。

ー先生として目標となる人はいましたか?

この先生みたいにっていうのは教師を始めるときはなかったかな。働き始めてから、この先生みたいな感じで出来るようになったらいいなっていう人は一人いた。でも結局基本的には真似できないよね。例えば僕がその場にいるだけで生徒がビシッとなるような先生になりたいと思ったとしてそれは無理だから。基本的に叱り方が上手ではないから、生徒を叱って何とかするっていうのは僕にはできないし他の方法でやるしかないなって感じかな。そういうことが色々あるから、色々と素晴らしい先生はいるけどその先生を目指して真似できるのことが僕にあるかというとそれはそれで違ったりする。

ー目標としているその人はどういう人ですか?

すごく職場をよく見ている先生で、子供に対してもすごくきっちり指導される先生だったんだけど、大人の職場もよく見ていた。先生同士の間をうまく繋いだりとか、必要なときは先輩の先生にも意見をしっかり言ったりとか。先輩の先生ってこういう風に振る舞ってくれるんだなっていうところで一番参考になった先生っていう感じ。で、今僕がだんだんと僕が入った時のその先生の年位になってきているから、自分が今後輩の先生とかにどうしないといけないかなって時に目標とするのはあの先生の振る舞い方だなって思うかな。

ーその先生からの指導で何か印象に残っていることはありますか?

具体的に今から君にこれを教えるよみたいな感じで教わったことは実はあまりなくて、普通に仕事されてるところをずっと見てたから、教えてもらったというよりは見てたかな。

ー他の先生にしっかり意見を言うというのはその人に不快感を与えることにもなりますか?

人を不快にさせないようにって思うことで何が一番しんどいかっていったら、両立しない時があること。八方美人は無理っていう話で、一対一ならその人の反応だけちゃんと見てればいいけど、例えば会議で意見が分かれた時にはどっちかに決めないといけないわけで、その時もう片方が不快でないかというとそれは分からないし、できる限り配慮した言い方はするけどやっぱり100%不快にさせないというのは無理かもしれない。じゃあその時に一番簡単な方法は何かと言ったら黙っておくこと。

だから最近までは基本的にそういう場で発言することはあまりなかった。ただ、最近は少なくとも新人ではないし、やっぱり自分が何らかの意思決定をしないといけないし、それに対して責任を持たないといけない年齢と立場になってきているから、難しいなと思ってる。

この立場になってきたら僕はどっちでもOKですって言うことの方が迷惑だし、あるいは自分の中でこっちの方が良いのになって思ってるのにそれを黙ってることの方が最終的には迷惑になるってことも最近ちょっと学んだ。それやったら最初から自分はこういう風に思っているってっていうことを、別に押し付けはしないけどできるだけちゃんと言うようにしようと思うようにはなったかな。例え相手が先輩の人であっても、それをしないといけないようになってきた。

基本自分としては不快感を感じさせないような人、言い方を目指してる。それを上手いこと言える人って割と少ないよねっていう気もするけど、なるべくそうなるように自分ではしようと思ってる。

ーご自身は不快感を感じることはありますか?

それは別に全然ある。自分としては言葉の端々とか大丈夫かなっていうのはすごく思うから、逆に何も思ってなさそうな人、中にはそう見えないだけで実は内心気にしてる人もいたりするけど、でもまあ基本的にこの人何も考えずに言ってるなって人に対しては、ちょっとぐらい考えられないのかなってすごくイラっと思う。

ーそういう方はよくいますか?

ちょいちょいある。多いか少ないかって言われるとよくわからないし、僕がそう感じるだけで他の人がどう見てるかもわからない。コンビニとかで買い物して無言で去っていく人とか、僕的にはないなって思う。無言はまだしも妙に態度偉そうな人とか、そういうの見てると何でそんなに偉そうなんかなって思う。

僕の父親は買い物した時にありがとうとか必ず言って行く人だから、お客さんとお店の人ってそういう風な関わり合いをするものだと思って育ったから、それを出来ない人ってなんかちょっと偉そうだなって思う。店の人だって別に仕事でやってるわけで、お金を出せば何でもかんでもこっちが上なわけじゃない。でもまあ逆に僕は自分の親がそうしてるのを見てそういうもんなんかなって思っただけで、その人の親はそうじゃなかったのかもしれないなって思う。

ただ最近たまたま知ってるYouTubeとか配信してる人が基本的に私生活では陰キャなんですよって言ってて、お店とかで『ストロー入りますか?』とか言われても全然声出せずに首を縦横に振るとかしかできないっていう話をしてて、黙って何も言わない人についてはそういう人もいるんだなって納得した。それはマナーがなってないわけじゃなく声を出すってことがその人にとってはハードル高いだけの話なんだなって、それは別になんかそういう人もいるんだなって思った。

休日はどうされていますか?

最近はゲームしたりYouTube見たりアニメ見たりとかしてるか、あるいは天気が良かったらちょっとバイクでどっかまでドライブしてみようかなとかいうのが多いかな。去年の春に免許を取ったから去年の前半はバイクに乗ってる頻度はすごい高かったかな。嬉しかったし、電車じゃなくても行けるところに行けるなっていう感じで。

コロナの始まる年あたりから知り合いの先生とたまにキャンプに行くようになって、そこで喋ってる時に『免許とか取らないの?』っていう話になった。当時はその先生の車に乗せてもらってどこかに行くってことしかなかったから、車なりバイクなりを自分で運転できたら自分で行ったりできるなって話になって、確かになと思って。

旅行はすごい好きなんだけど、当然足がないからそれまでは電車とかバスで行けるような感じの旅行に行ってた。その時バイクとかあったら今まで行ってみたいと思ってたけど足がないから無理だなって思ってたところも行けるようになるし、免許取るのもありだなって思って。

キャンプとか行き出したきっかけもコロナ禍に入っていたのも大きいかもしれない。みんなで遊びに行こうぜっていうのもなかなかしにくかったけど、当時からキャンプって屋外だから大丈夫みたいな風潮あったし、ちょっと自分の時間が多い年だったのもある。車は免許取るまでに回数が長いからできるだけさくっと取りにいけるものってことで、じゃあバイク取ろかなって。それで知り合いの先生にバイク取るなら何がいいですか?って聞いて、モーター付きの乗り物を運転したことがなかったからまさか自分が高速を運転できるとは思わなかったし、じゃあ小型のバイクの免許を取ろうかっていう感じかな。

ーYouTubeはどういうものを見られますか?

野球とかの動画も割と好きで見るし、ゲーム実況みたいなやつも見るし、〇〇について解説しましたみたいなのも見るし、将棋とか音楽系も見たりする。音楽に関してはたまに自分でもちょっとピアノ弾いてみたりする。全然上手には弾けないけど、この曲はこんな音だなっていう感じで弾いてみたりする。

ピアノは一応小学校の時から高校卒業するまで習ってたけど、普通高校卒業するまでやったらこれくらい上手にはなるよねっていうレベルには全然達していない。結局本気でピアノ面白いと思って毎日練習しようかなってなったのは高校入ってからとかだった。

小学校の時にフルートの演奏を見て、なんかそれをすごくかっこいいと感じて母親に「あれ吹いてみたい」ってことを言った。でもフルートってなかなか習える場所が限られてるから、音楽したいならまずは楽譜読めるのが一番良いっていうのでピアノ教室通ってみないかっていうことになって、家の近所のピアノ教室に行ったっていうのがきっかけかな。

今は別に何かの楽器に限らず機会があるならやってみたい。ただ、楽器練習すること自体は好きだけどなかなか練習する環境がないから難しい。今は家に電子ピアノがあってうちみたいなマンションでも全然できるけど、他の楽器の練習ってマンションではちょっと気が引けるからやっぱりピアノとかになるかなっていう感じ。

でも譜面を完璧に弾けるような巧さは全然ないから、この和音を弾いてみようとか、ここってこういうメロディーかっていうのを自分で触ってみて納得したらそれでいい。

例えば威風堂々っていう曲が昔からすごく好きなんだけど、たまたまYouTubeのBGMかなんかで流れているのを聞いて、良い曲だなって久しぶりに思ったから弾いてみた。それで、特にここが良いとかここでこの音が入ってくるのがやっぱ良いよねってなったらそれで満足。別にすごい上手に弾けなくても、なんかこの曲のこの部分をかっこいいと思ってたんだなっていうのを知れたら自分的には満足。

もちろんそれを上手に演奏できたらもっと満足度は高いんだろうんけど、そこまで行こうと思ったら結構必死に練習しないといけなくて、僕にそこまでのバイタリティーがないからある種今のレベルとしてはそれで満足。

ーアニメはなぜ好きなのですか?

好きなアニメ教えてくださいって言われた時、答えたアニメの全部が好きっていう人が多数派なんかなって思うけど、僕の場合はなんかこのアニメのここを見て欲しいっていうのが基本的にあって、アニメのパラメーターを描いた時にここが良いと思うっていうのがある。話として面白いとか素敵とかもあるけど、アニメも結局これの演技を見て欲しいとかこの演技すごい良かったっていう話をする。

だから音楽も一緒で、もちろん全体もすごい良いんだけど、全体が好きというよりはその中のこれが面白くさせてるとか、こういう部分が感動させてるっていうのを見るのが好きかな。アニメに関してはそれを作った人に対するすごいなっていう思いとか、その演技が良ければそこをそんな風にできる声優さんすごいなとかが自分の中で満足だったりする。音楽とか展開とか台詞でもいいけど、この場面をこういう台詞で表現できる脚本家すごいなとか、この演出考えた人は天才だとかいう風に見るのが好きかな。

ーキャラクターが好きとかは思わないですか?

あまりなくて、そのアニメを見てる間はこのキャラクター良いなとか思うけど、見終わった自分の気持ちとしてはここのこの展開がこのキャラの良さを出してるよねとか、この演技がこのキャラクターを高めてるよねとか、そういう風な頭になっていくかな。

例えばひとつ好きなアニメがあって、主人公の女の子が成長していくところを頑張ってるなって思いながらストーリーを見てたんだけど、その脚本家が全50話の中のポイントポイントで主人公を成長させてるから、その成長を見て自分がその主人公が頑張ってるなって思うんだなってことを見終わった時は思う。だからキャラクターが好きかって聞かれると、どっちかっていうと好きなのはそのキャラクターを生み出した展開と脚本ですっていう感じなのかなって思う。

ー実際の人に関してはそのような考え方をしますか?

あまり思わないかな。自分の中での理解の仕方は、人の持ってる技術とか人がこういう風に自分の能力を駆使してこれを生み出しましたっていうのにすごく興味はある。でも、こう言ったらすごく冷たい人間に思われるかもしれないけど、その人本体に対する興味は割と薄い。

例えばちっちゃい頃からジブリの映画を見てきて、当然宮崎駿はすごい人だし自分も映画好きだしその価値は認めるし、宮崎駿の技術とかそういうのはすごく興味が尽きないし、なぜナウシカが面白いのかとかなんでトトロが面白いのか、そこに宮崎駿がどんな能力と技術をつぎ込んでいるのかっていうのはすごく面白いんだけど、宮崎駿個人がどんな性格だろうとそれはどっちでもいいかな。宮崎駿のドキュメンタリーは全然見るし、こういう風な狙いでここをこうしているのかとか、実際の現場ではこういう風なやり取りで作っているのかとかはすごい面白いし見るけど、別に宮崎駿と友達になりたいとかは全然ない。そういう感覚。

職業的に自分の生徒とかに対してどういう家庭環境で育ってきたのかなとかは当然考えるけど、仕事を離れた部分でそういうのに興味があるかっていうと実はそんなにない。それよりはこの人自身にこういう能力があって、多くの人が形は違えどプロフェッショナルのものを持っていると思うんだけど、そういうのを見てるのがすごく面白い。そことの繋がりでその人のバックボーンが見えるのが面白いんだけど、そのバックボーンを積極的に知ろうとはしないかな。まずこの人の持ってるもの、この人の持ってる能力とかプロフェッショナルな部分とかっていうのをまずは見たい。そことの繋がりがあればバックボーンも知りたいと思うんだけど、でもまあスタートはそっち。

ー人は好きですか?

難しいよね。好きは好き。どういう関わりが好きですか?とか全体的に人のどういうところに興味がありますか?って訊かれたらそういうさっき言った部分なのかな。友達として誰が良いですかと言われるとまた全然別だけど。

ー友達だとどういう人が好きですか?

あまり疲れない人が良いよね。基本的に自分のペースで行きたい人だから、こっちのペースに干渉してくる人はちょっと苦手だね。例えば飲み会に行って、二次会くらいまではこっちも想定してるとなるとそこまでは全然楽しい。でもこっちの予想を超えてもう一軒行こうってなって、ちょっと疲れてたりもう飲めないって思ってたりすると、なんだこの人帰らせろって思う。ある種ドライな人が友達付き合いとしては楽。

自分はどういう人だと思いますか?

基本的に自信は持ってない。自分に自信を持たないようにする生き方をしてきたし、自分が正しいということはできるだけ思わない様にしようと思ってやってきたから。基本的に自分は何かを得意だと思っていないけど、仕事に関する得意分野は自分の中である。

一つは多分文章の構成力。いわゆる研究授業と言われる、何人もの先生がその授業を見学してその授業のやり方とか、どうしたらもっと上手くいくとかをみんなで考えましょうっていう授業の時に、指導案っていうものを書くんだけど、それはこういう狙いの下こういう授業を展開しますっていう授業の計画書みたいなもので、正直色々な先生の書く指導案を見ていて俺の方が上手いなって思うことはある。

時代によって変わってはいくんだけど、指導案はこういう風な書き方が良いっていうのはあって、少なくとも今はこういう書き方が良いっていうのがあるから、そういうのに対してきちんとポイントを守って書いていくって力は割合あるかな。なぜそれが出来るのかって言われたら自分では説明できないけど、求められているものに対して合わして書くっていうのは割と出来るかもしれない。

それは多分そういうことを専門にしている人からするとまだまだなところがあるけど、少なくとも学校、現場レベルで言ったらパワーポイントとかプリントを作る時に画面構成とかは割と上手に出来る。自分でセンスありますっていうのはなかなかだけど、センスが光る様なものではなく単純に出来るだけシンプルに見やすくっていうのは割と出来るんじゃないかなって。授業のプリントとか、時間さえあるんだったら割と自分の作ったものには自信がある。

仕事面でいうとそういうのはあると思う。人格面ではどこがいいとか全く思わないな。そういう面でも僕は基本的に技術の方が興味あるかな。自分の内面に関してはまあそんなもんかなという。そういう面で自分がどういう人かは考えない。

ー他者からはどう言われますか?

真面目で一生懸命な人だとは言われるけど、自分では全くそう思っていない。それはさっき言ったように、真面目で一生懸命な人だと思われるように自分が行動を選択しているだけだから。要は人に不快感を与えないようにとか、真面目で一生懸命な人でしょ。そういう選択、行動をしてきたから真面目で一生懸命な人に映るよね。別にそれは自分の心の底から湧き上がって真面目で一生懸命なわけじゃなくて、そういう風に思ってもらえるように行動を選んでいるだけ。そう言ってもらえるのはありがたいことだけど、自分では全然それが自分の本質的な性格だとは全く思っていない。

ー人に不快感を与えたくないという部分は本質的な性格ですか?

そういう思いで行動を選んでいるだけど、なんなんだこいつとか心の声は頭の中には出てくるし、それは大人な社会人だったらみんなそうだと思う。それをみんな表に出さないだけど、だから別に心の中までそんな真面目な感情で動いてるわけじゃないですよって思って。

ー人に不快感を与えてしまったなと思った時はどういう感覚ですか?

自分の、これはこういう風に失敗したから今後はやってはいけないなというリストに書き込まれる感じかな。ごめんなさいって言った方がいい場面で、可能であればもちろん言うけど、別に今それをごめんなさいって言ったらところでしょうがないなと自分の中で思うよ。本当に相手が不快に思っているかわからないし、どっちかっていうとやってしまったかなとこっちが勝手に思うことの方が多いんじゃないかなと。実はそこまで人は気にしていないんじゃかってことも沢山ある。ただ、こういう風にしないでおこうリストは日々増えてるし、だから前のリストを忘れてまたやっちゃったりするんだよね。基本的には自分の中の反省文は日々足されている。

ー他人を不快にさせてしまったなと思う時、嫌われたら嫌だなという思いか、人に不快感を与えないっていう自分の思いとのずれに対する後悔なのか、どういう感情が一番近いですか?

一つはやってしまったけど大丈夫かなっていう、まあ恐怖かな。二文字でいうとしたら恐怖だね。それと、後悔もそこについてくる。もうちょっと我慢しておいたらよかったなとか、もうちょっとちゃんとしておいたらよかったなとかを色々。恐怖と後悔の二つが一番大きい。

ーそう思われるようになったのは中学生の時の顧問の先生から言われた時のことが大きいですか?

自分のなかでは、そこで大きく変わった。そこから徐々にっていうはあると思うけど、最初の段差はそこにあった。

ーその時はどなたかにその話はされましたか?

親に言うって言う発想は全くなかったんですよ。自分でも多分なんかがおかしいと薄々思っていたし、その周りの反応とかそういうことかって納得した。当時はまあ中学生だし、やや反抗的な思いはあったよ。でもその言われたことに対して本当かなとか疑いは特になかった。なるほど、そういうことってあるんだなみたいな。

今までどういう人生でしたか?

ー小学校は?

小学校は結構毎日のように友達の家に遊びに行ってたかな。当時は友達の家行ったらゲームとかしたりするわけだけど、うちに家にはゲームなかったからゲームをするためには友達の家に行くしかなかった。でもまあ毎日にように遊んでた記憶がある。田舎やから家の前の道路とか、庭でできるような遊びも多かったかな。

ー中学校は?

中学の時は暗くなるまで部活やってたから、自分の中での友達との交流ってのは十分出来てるつもりやったかな。家帰ったら、家で過ごしてた。

ー高校は?

人格的な面でいうと、中学校でそういうことがあったからどれぐらい自分のスタイルを確立してたかはあまり釈然としない。中学校のことは自分で振り返った時に自分の根本的な考え方の一つだなとは思うけど、それが致命的なトラウマだったわけではないから、それで対人恐怖症になったとかそういうことでは全然ない。別に友達もいたし、毎日楽しくやってた。

中学校の時は卓球部で、高校は卓球部がなかったからその時のメンバーの子らと集まって卓球台を借りて遊んでた。それ以外は何してたんだろ。基本的に放課後友達と遊ぶとかはそんなにしてなかった。その時から人に興味なかったかも、ただ単に陰キャだったのかもしれないけど。

家帰って何してたか今でもあまり思い出せないな。マンガ読んでたか音楽聞いてたかな。マンガ読むのが高じて一回マンガを描く練習してた時はある。高校からはピアノ弾いてみよって思ったらちょっと弾けるくらいにはなってたから、家のピアノ弾いてたかな。

ー大学は?

大学が一番無難かも。いろんな人に出会って、結果的に教育大にいけてよかったなと思ってる。それによってこんだけの人に出会えたという思いはある。それは進路指導とかでも最終的に子供達には言うかな。自分の思ったところに入れるかどうかはわからないけど、絶対そこでの出会いがあるから頑張ってきてって。それは本当にそう思う。小説とかアニメで、どこに行ったとかじゃなくて誰と出会ったかが大事だよみたいなセリフあるけど、それは本当にそうだなと思う。

ーいろんな方と出会ったことでどういう影響がありました?

高校の時にすでにそうかな。中学校までは優等生であるって自意識があったんだけど、明らかに自分より賢い人がいるっていうことを思った。高校ではそれは勉強で、一応周辺では一番偏差値が高い高校で、絶対こいつほど勉強できないっていう友達がいた。その時は別に自分はすごく勉強できるとかではないなって思ったけど、大学はそれをもっと広く思った。勉強だけじゃなく、いろんな面で自分の才能が全く及ばない人がいるっていう。

例えばある人を見て真っ先に思ったのは問題発見能力。要はおかしいところに気がつく能力。いろんなものをバーって見た時にここっていうのところを見つけ出す能力があるのがすごい。それに、それに対する解決策の提示とかも早い。そういう感じで自分にはない才能をいっぱい見たよね。人が持ってるスキルとかそういうことを意識し始めたのは大学入ったくらいかもしれない。高校でマンガ描くのちょっと練習してみようと思って、その時にはちょっと分析してたかな。

最初コナンの絵を真似したんだけど、この部分とこの部分を抑えたらコナンの絵になるなって、今振り返ってみるとそう思いながら描いてたかなと。あとは親がある作曲家のファンで、『ここが良い』って言ってるのを聞きながらジブリの映画を見てて、自分でも当時あの人の作る場面の雰囲気を出す力、この音楽がついてここの場面がより盛り上がってくるよねっていうのを感じてたから、なんでこの音楽がかかるとこんなに盛り上がるんだろうっていうのはちょっと考えたかもしれない。

ー分析するようになって他の人の特徴に気付くようになった?

そうかもしれない。大学の時ってそこまで考えていなかったと思うけど、一人暮らしで自由になったのもあるかもしれない。これは今振り返ってみて思うんだけど、自分の好きな物を買うとかアニメとか漫画とかを見るにしても、実家にいる時よりも圧倒的に自由になった。大学で初めて親の影響を離れて自分の気に入ったものとか面白いと思う物を集め始めた時に、自分の好きなものの共通点とかなぜ自分がそれを好きなのかということに初めて目が行ったんじゃないかなって思う。

実家にいる時に基本的に自分の楽しむコンテンツって実家にあるものだから、自分の好きなものがこういうものだよっていうのを認識することができるようになったのは実は大学に入ってからなのかなと。今ちょっと振り返って、そういうことなのかもしれないと今人生で初めて思った。

ー今のご趣味や興味があることはいつから?

大学の時に学生自治会という組織にいて、そこでいろんな個性的な先輩に会って、僕なんかは特に一人暮らしだから時間を過ごすのはクラブかその学生自治会かどっちか。当時そこは笑い力が求められる集団、笑い的にレベル低いことができないみたいな。それで怒られるわけじゃないけど、その集団の中にいるからなんとかして自分の立ち位置を見つけたいなってなった。ツッコミどころを見つけるのではその先輩方に敵わないから、何で勝負するかってなった時に僕は守備範囲で勝負しようと思った。それでできるだけいろんな話題を追おうと思った時期はあった。それで中途半端に知っているにわか分野が増えた。

鉄道についてはもう出処が分からないレベルで、物心ついた時には好きだった。一個理由があるとすれば、昔親と寝る前に散歩みたいな感じで地元の駅に行って最終電車を見て、今日も電車見たなって言って帰るってことはしてた。多分親としてそれを見せに行ったつもりは全然なくて、ドライブに連れて行ったりとか特定の行動をしたら寝やすいとかそういうのが始まりだと思う。だから電車はなんとなく根本的に好きだったんだろうなって思う。

ー旅行が好きなのも電車きっかけですか?

それもある。電車で行けないところあるしとは言っていたけど、根本的には電車乗るのが好きだからそれはそれで良しみたいな。電車が好きな理由は分析が及んでいない。乗るのも好きだし、駅でただ見るもの好きだし、音声アナウンス聞くのも好き。写真撮ったりはあまりないけど運転席見るのも好き。その理由はわかっていて、運転手の技術が見たいんだけど、眺めてるのが楽しい理由は今のところ自分でもなんか説明できないな。

ー旅行に行かれるようになったきっかけは?

元々はうちに両親が教師で、夏休みに先生の研修みたいなのがあったから父親がそれに行くついでに旅行もちょっとしてみたいな。だから夏休みに家族行事として旅行が一回あって、長期休みに出かけるのと母親の実家に行ったり父親の出身地にあるお墓に行ったりと、なんとなく自分の中で定期的にどっか遠くに行くみたいなイメージがあったかな。

大学生の時はお金もそんなにないしあまりしてなかったけど、働き始めてちょっとお金が増えてってなった時に、夏休みだしどっか行ってみようみたいなところから始まったかな。働き始めてカメラも買ったし、いろんなところに行って写真を撮りたいなって思いもあったかな。

ーカメラの良さは?

これは自分の気に入ったものだっていうのがある。カメラをやってるとだんだん自分の好きなやり方と雰囲気がわかって、自分はこういう写真すぐ気に入るなっていう感じが出てくる。

ー苦手なことはありますか?

パチンコ。ハマった時に自分を止める自信がない。一回行った時にたまたまビギナーズラックでそこそこ出て、これはお金使いますわと思って、当然元が取れるはずもないことも頭ではわかってたからやめとこうと思った。

あとは試してみたわけではないけどショッピングとかは無理。どれにしようとか考えるのが嫌だから、試着せずにサイズだけ見て買う。人と行くってなったらめっちゃ嫌で、人が選んでいるのを待ってるとか隣にいて付き合うとかは耐えられると思うけど、自分のもの選ぶとかそういう風に自分の選択が生じた途端に嫌。

遊園地とかも楽しめないけど、水族館はテンション爆上がりする。美術館はあまり行ったことないけど、今だったら割合楽しめるんじゃないかなって思う。美術作品とか訳わからないって思ってたけど、YouTubeで学芸員の人が作品の見方とか、どこに注目したらいいかとか、こういう風な意図で展示されているって説明している動画を見たから、結局それも展示している側の技術があるって分かった。自分の関心を持ってるポイントが美術館にもあるらしいということがわかったから、今なら楽しめるってなってる。

その動画はゲーム実況を見てたらオススメに出てきたんだと思う。ゲームの中に出てくる美術作品を美術館の人がガチで解説しますよっていう企画があって、面白いなと思って見た。美術館にも展示の仕方とかの注目点があるし、それぞれの美術作品についてもこの絵があったからこそこういう意識が生まれて次に作品が出てきたとか、そういうこともあるっていう話を聞いて、そういう風に注目して見たら面白いっていうことがわかった。そしたら美術館に行っても展示とか見ながら、これ言ってた奴だなとか、初めて見る絵でも説明書きに書いてることとかを楽しめるんじゃないかなとは思ってる。美術作品だけ置いてあったもそこから何かを感じることはないから、そこに凄さを説明してくれる人だったり展示だったりがあるとそれは面白く見えるんじゃないかという気がしてる。

ー普段人と関わる時も技術面を意識されるのですか?

リアルな人間関係のところに置いては、人格と技術を離して考えられない。当然技術の話を聞くと面白いんだけど、やっぱり日常的に会う人に関してはそこばっかりとお付き合いするわけにはいかないし、日常的な人間関係のある人はあんまりそういう目で見ないかな。

ー人に不快感を与えないっていうのは技術だと認識されてますか?

そうは捉えてない。多分根本的に自分の中で自分の分析ってあんまり面白いことじゃないから。自分がなぜそれを好きなのかとかを分析するのはすごく好きなんだけど、分析対象が自分の性格とか自分の行動とかになった途端それは結構苦行。毎日反省文書いてるから。何で自分がそれを面白いと思うかっていう意味では自分が入っているけど、自分の好きなものを分析している時は台の上に置いているのはどっちかっていうと自分の好きな音楽だったり漫画だったりする。でも自分の性格とか行動はどうかっていう分析になった時はまな板に置かれているのは自分で、解剖しながらこんなところに腫瘍があるんだとか。

普段やってることが基本的に反省文を書くことだから、自分を台の上に置いた時点でそれはもう反省文を書くために乗せてる事になる。他のものは論文を書くために乗せてるようなものだけど、自分をここに置いた時は今から書くぞっていうのは論文じゃなくて反省文。だから、「さあ今から解剖するぞ」とはあんまりならない。

まな板に乗っている人がリアルな人間関係ある人っていうのもちょっとやりづらい。だから台の上に乗せて解剖しやすいものとちょっとためらうものがある。それは基本的には自分に近いほど難易度が上がってくる感じかな。

ー自分自身のことを考えられる時は基本的にマイナス要素が多いですか?

こんなに良いものが入っていましたっていうのはほとんどしない。仕事に関わることだとそれは台の上に置かざるを得ないもので、反省文を書きましょうではなく研究対象ですよって言って乗せるから苦痛度は下がる。

ーそう思うようになったのは中学生の時からですか?

多分中学校までは解剖台に乗せてなかったと思う。中学校の時に初めて解剖したら腫瘍が出てくるかもしれないことを知った。だからかもしれない。自分を台に乗せるということは腫瘍を見つけようとすることで、良い臓器を見るために乗せているのではないから。

人生でしたいことはありますか?

別になんかこれっていう形があるわけじゃないけど、一回自分の欲望どおりに、人としての常識的な範囲で自分の好きなように、全然仕事とかも関係なく誰にも遠慮することなく、1年間くらい自分のやりたいことをしますみたいなのをやってみたいなという気もある。残りの人生を全てそうしたい訳じゃなく、一個達成したいイベントのようなもの。教師になった時にそういう思いがあったのかもしれないけど、自分のこれ面白いですよっていうものをたくさんの人に見せていきたい。それは学校で理科の授業教えるときも、やっぱり理科面白いと思って教えてるし、それが伝われば良いなと思ってる。それ以外にもなんか自分の面白いと思ってることを広く発信できるような、そういう機会に恵まれたら嬉しい。

あと個人的にはもっと音楽を思い通りにできるっていうのを経験してみたいな。自分の表現したいと思ったものを自分の思った通りに表現しきるっていう技術を、一回ちょっと神様与えてくれないかなって思う。それをもし何かの分野でやらせてもらえるなら僕が音楽がいいかな。歌でもいいし楽器でもいいんだけど、それはやってみたいかな。

今なぜ生きていますか?

自分はそういう風に自分が感動するものとか、そういうものに出会えるから生きてる。例えば明日死ぬってなった時、恐怖感とかはさておき、ひょっとしたら今気に入ってるあの人がこのあともっとすごい作品を生み出すかもしれない、もっと感動するものをひょっとしたらこの先出会うかもしれない、それを見れないというところが非常に残念だと思う。

それが作品でも物でも人でもいいけど、すごいと思えるのに出会えるのが生きてて一番おもしろいんじゃないかなと。これの、あるいはこの人のこの部分すごいっていうのを目の当たりにした時の感動っていうのはなかなか狙って出会えるものじゃないし、そういうものに出会えることが生きてて一番良かったなって思います。

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