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大河ドラマ「どうする家康」第11回雑感 ~用意周到な信玄の駿河侵攻~

いよいよ武田信玄が今川領駿河に侵攻を開始した。永禄11年12月のことである。

武田の侵攻軍は、わずか数日で、しかもほぼ無傷で、戦わずに駿府を陥落させた。
徳川家康はじめ家臣達は、武田の侵攻の早さと強さに驚き、恐怖する。

正に孫子の旗印、風林火山、侵略すること火の如く。
赤備えの武田軍と真っ赤な炎に包まれた駿府はそれを象徴している様でした。


これまでドラマでは、阿部信玄は、圧倒的存在感とボスキャラ感満載に描かれていましたが、実際の信玄は、かなりイライラが溜まっていたであろう。

越後の上杉謙信との長年の抗争で、勢力拡大は信玄の思うように進んでおらず、西上野、東美濃の攻略も中途半端でした。
また、上杉謙信との戦いの中では弟典厩信繁をはじめ多くの重臣を失い、今回の今川攻略では義信廃嫡、飯富虎昌など義信派の重臣の粛清と、優秀な人材の喪失もあった。

信玄は決して、ドラマのように余裕をぶっこいている状況ではなかったのではないか。


その鬱憤を晴らすではないが、今回の今川攻略にかける意気込みは尋常ではなかったと思う。

侵攻前に信玄は今川方の国衆の調略を綿密に行い、多くの国衆を味方にすることに成功し、ほぼ駿府攻略を確実なものにする。

実は、ドラマでは描かれませんでしたが、宿敵の越後上杉を北に引きつけるため、信玄は陸奥会津蘆名盛氏と越後攻めの密約を結び、さらに越後揚北衆本庄繁長を調略し、謙信に謀反を起こさせており、
また、越中では椎名氏、一向一揆をも味方に付け、謙信を牽制するという周到な用意をしている。

侵攻時期は12月の雪の季節、越後上杉謙信は部隊の移動は出来ないというタイミング。

恐るべし信玄。

孫子の兵法にある
「百戦百勝は善の善なるものに非ず。戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり」
即ち、戦わずして勝つを実行したのでしょう。

「どうする家康」第11回の一場面。
駿府周辺の国衆は武田に寝返り、「どうする氏真」



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