飢餓の村で考えたこと 53.54
サムスール・ホック君
私がポイラ村に入る前から、シャプラは活動を進めるために村の青年たち(男性2名女性1名)を雇用していた。その中の一人が私よりも一才年上のサムスール君だ。
自分のNGO活動を振り返ってみると、自分がやれたことよりもNGO活動から私が得たものの方が圧倒的に大きいと感じる。特に人との出会いについては、もしNGOの活動をやっていなかったら出会うことがなかったであろう素晴らしい人たちと出会えたのである。この素晴らしいという意味は社会的な立場のことではなく、人間として素晴らしいという意味だ。
その意味で特に私の脳裏に浮かぶベンガル人は3人で、その1人がこのサムスール君だ。ポイラ村に入って彼から学ぶことが多かった。事務所で会議をしていると近所の子供たちが入口で悪ふざけをするので会議ができない。すると彼は猛獣が獲物をにらみつけるような迫力で子供たちを睨み付け一言「行け」と一喝した。子供たちはその迫力に恐れをなして逃げて行った。
サムスール君は私と二人になった時「いとバイ(伊東兄弟)、小さい子供を叱る時はたくさんの言葉を浴びせたらいけない。反論できない子供の心を知らないうちに傷をつけてしまうから。子供を叱る時は自分の心に愛情を持っていることを確認して、できるだけ言葉を少なくした方がいいよ。」とアドバイスしてくれた。
日頃の優しい彼の人格がにじみ出ていた言葉だった。私にとっては今でも大きな意義がある言葉だし、今でもなかなか実践できていない言葉だ。私たちは子供のための青空学級の活動を行っていた。
ある日私とサムスール君は青空学級に来ていた子の家を訪ねた。青空学級に参加するには親の理解が欠かせないからだ。サムスール君は母親に子供がバザーに卵や牛乳を売りに行った時、計算ができなければおつりをごまかされてしまうよと計算を学習することの必要性を優しく話した。だからこれからも青空学級に参加するように説得したのだった。彼は私たちの活動にはなくてはならない人だった。
銀行に就職
彼は非常に頭が良かったし努力したので大銀行の入社試験に受かってしまった。信じがたい狭き門を突破したのだった。この合格は奇跡に近いことだった。彼と彼の家族にとっては今後2度と来ない入社のチャンスだった。
その頃シャプラは彼の将来を約束できる運営状況ではないと私は判断していた。シャプラはバングラの人たちのために何かしなければならないと思った人たちが集まって、まだ始めたばかりのNGOだった。私たち駐在員も無給だったし私たち駐在員の渡航費さえも自腹だった。
東京の事務局を支えるスタッフもボランティアの人たちも全員無給で活動を支えていた。東京で関わる人たちは若い人たちが多く、組織運営に長けた年配者は殆どいなかった。
私たちはサムスール君にこのNGOの将来ビジョンを示すことができず、断腸の思いで銀行に入社する彼を見送ることしかできなかった。彼も私たちと同じ思いだったはずだ。
それから十数年が経った。彼は優秀で銀行に入ってからも仕事をしながら8年間大学と大学院に通い卒業し銀行では異例の出世をしていた。その後も銀行の仕事をしながらシャプラのダッカ事務所の経理を10数年した。その後JICAの経理を6年間行った。
彼は本当に志が共有できる人だと心から思う。ポイラ村にいた当時彼の家庭も貧乏だった。しかし優しい彼のお父さんの話を聞いた。
ある日お父さんは喫茶店でお茶(ミルクティ)と甘いお菓子を食べていた。その店の前には乞食さんたちがいたので甘いお菓子を投げ与えた。乞食さんたちはそのお菓子を取り合い、その騒動で一人が亡くなってしまった。
お父さんは自分のその時の行為を悔いて、その後の人生では大好きだったその甘いお菓子は食べなくなったという。
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