型となること | 真南風乙節/唄い継いでいく 4 | 東京から唄う八重山民謡
わたしたちが教本としているのは、三線のメロディを示した工工四に、唄のメロディも書き添えられた「声楽譜付」というものだ。安室流保存会で声楽譜付きが発行されたのは1989年。そんなに古い話ではない。そう、だから、師匠が故・玉代勢長傳先生に入門したころの教本は声楽譜付きではなかった。
声楽譜付きといっても、唄のメロディの音の高さが漢字で示されているぐらいで、五線譜の音符のように音を伸ばす長さまで厳密に記されたようなものではないし、強弱のつけ方などは書かれていないのだから、声楽譜だけで唄えるものではない。だから、教本が声楽譜付きだろうとなかろうと、師匠の唄を聴きながら真似してマスターする、というのは一緒なのだが、やはり違う。家で1人で練習しているときに節回しに迷ったら、声楽譜を三線で鳴らして、音を確かめることができるのだ、いまなら。でも、声楽譜がなかった時代は、聴いてしっかり覚えるしかなかった。
しかもいまは、スマートフォンなどで録音が容易にでき、レッスン中に師匠が録音したものを、自主練習用として配られることもある。音源を持ち歩いて通勤途中に聴いたり、聴きながら合わせて唄ったり、それでも迷って声楽譜に頼ったりしながら練習している身には、その昔の稽古というものがなかなか想像しづらい。
もっともいまの東京から、30~40年前の八重山を想像しようとするから難しいということもある。師匠宅に数分で行ける距離であったり、踊りの舞台や祭りがしばしばあったり、家々から練習する音色が響いていたり、という環境なら、生唄を聴く量は天と地ほど違う。しかも東京人には島むにの発音という高い障壁がある。
それにしても師匠の記憶力はすさまじく、「長傳先生とまったく同じ節回しで唄っている」と胸を張っているし、歌詞も間違わない。レッスン中にほとんど教本を開かない日もある。それだけの記憶力は、唄い続けた年数もさることながら、修行中の集中力も大きかったのではないかと思う。声楽譜や音源があるとわかりながら臨むレッスンでは、集中しているつもりでもどこか気が緩むものだ。
「真南風乙節」は、5歳で父を、7歳で母を亡くした女の子が、引き取られた先でさまざまな仕事を言いつけられている様子を詠ったもので、ユンタから節歌になった唄だ。教本には丸括弧に入れた囃子が書かれておらず、入れずに唄うこともあるが、ユンタであった名残であり、交互に唄いやすい構成になっている。
ユンタには、セットで唄われる「トースィ」という唄もあって、「真南風乙節」にも「真南風乙節トースィ」がある。
歌詞はこの先も長く続く。トースィでは2句ずつ組になっていて、奇数句を男声が、偶数句を女声が唄うが、奇数句と偶数句の間は切れ目なく唄が続き、偶数句の後に間奏が入って、また奇数句・偶数句と続く。
この「真南風乙節トースィ」は、基本の教本である『八重山歌工工四全巻』には載っておらず、『八重山民謡舞踊曲早弾き工工四』に載っている。
安室流保存会の工工四は、玉代勢長傳先生と大濱賢扶先生の編纂によるもので、節歌を収めた『八重山歌工工四全巻』は1971年に、その声楽譜付きは玉代勢長傳先生によって1989年に発行。『八重山民謡舞踊曲早弾き工工四』には、舞踊に合わせる早弾きの曲と、ユンタが収録されていて、玉代勢長傳先生によって1988年に発行されている。後者には声楽譜が付いていない。
そのため「真南風乙節トースィ」は、レッスンで聴きながら師匠を真似しながら節回しを覚えざるを得ない。師匠が習っていた時代を疑似体験しながら学んでいく感覚なのだが、これがなかなか難しい。つくづく日頃、声楽譜の視覚情報に頼っているのだなと思わされる。
1971年に工工四が発行された際の玉代勢長傳先生による「まえがき」には、編纂に至る経緯が書かれている(声楽譜付きにも再録されている)。八重山における工工四の始まりは1884(明治17)年。戦後には「八重山民謡も全琉的な芸能勃興の波に乗って、普及するようになってきて」、優れた音楽家たちが誕生した。それはいいことばかりではなかったようである。
節歌にかんして言えば、1971年の工工四によって、安室流保存会の三線の弾き手が確定された。さらに1989年に声楽譜付きが発行されて、唄の節回しも固定された。「一つの流れを汲む伝統芸能」として型が確立される途中段階に、師匠は若い時分に立ち会っており、型が決まってからわたしは入門している。
工工四や声楽譜がなく、完全な口伝だったころは、唄い継ぐことも、唄そのものも、わりあい大らかなものだっただろう。ただその時代にわたしが、八重山に移住することなく東京に暮らし続けながら八重山民謡を学べたかといったら、音楽的な勘が鋭いほうではないので、かなり困難だったと思う。
「一つの流れを汲む伝統芸能」として後世に伝えていくために、正統となる型を確立し、厳格な伝承を始めたところ、それによって八重山の外にも開かれたというのは、玉代勢長傳先生にとって予想外だったのか、想定内だったのか。東京の片隅で、声楽譜に感謝しながら、あてもなく想像してみる。そして、ユンタにも声楽譜がつくられればいいのにな、とひっそりと願う。
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