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災害を語り継ぐ | 与那覇節/唄から文化を学ぶ 6 | 東京から唄う八重山民謡

与那覇節[ゆなふぁぶすぃ]
与那覇主ぬ御蔭んヨウスリヌ 主ぬ前ぬみぶぎんヨウウネシュラヨウ

玉代勢長傳編『八重山歌声楽譜付工工四全巻』(1989)pp.31-32
※引用は2006年版から

 2021年、石垣市役所が、美崎町にあった旧市庁舎から、真栄里に完成した新市庁舎に移転した。51年間使用された旧市庁舎では叶わなかった、耐震構造の強化やバリアフリーが新庁舎には備わった。それだけではなく、港に面する埋立地の美崎町から、高台の真栄里への移転には、東日本大震災(2011年)や明和の大津波(1771年)の教訓が生かされたのだという。

 1771年とは、かなり昔のことのように感じるが、大津波がどこまで達したのかという話題は、師匠や島の人たちから聞くことがあり、津波への恐怖心や備えは、民謡と同じように代々語り継がれているようだ。

 それもそのはず、明和の大津波の八重山全体での犠牲者は9313人とされ、当時の人口の約3分の1にあたる。全34村のうち、8村が流出、7村が半流出したそうだ。平坦な島が多く、現代のように高層で頑強な建物があるわけでもなく、海に囲まれた環境で、迫り来る高波はどれほど恐ろしかっただろうか。これからも天災はいつ来るとも限らない。

 「与那覇節」は明和の大津波の7年後に、在番役人として首里から派遣された与那覇親雲上朝起が復興に尽力したことを讃えて作られた唄である。お役人さまの恩恵で、という第1句に続いて、「昔世ば給られ 神ぬ世ば給られ〈豊年の世を恵まれた、神の治世を賜った〉」、「主ぬ前ば仰ぎ 百果報ど手ずる〈お役人さまを仰ぎ奉り、たくさんの幸せを受けられるように合掌しました〉」と詠う。

 喜舎場永珣氏の『八重山民謡誌』によると、与那覇主は津波後に派遣された4人目の在番であり、7年経っても復興が道半ばどころか、八重山の人々が衣食住に事欠き、疲弊と困窮を極めていたのを目の当たりにして、ただちに復興計画を立てた。さらに、人頭税から逃れるために、自死、山に逃げる、洞窟に身を隠すといった行動に走る人々に同情して、3年間、貢納を免除したのだという。その恩恵に感謝しながら、復興の証である初物の米を納めたことを唄にしたのが「与那覇節」だ。

 というのが定説であったが、功績のすべてが与那覇主によるものと示す史料はなく、前後の在番の功績も混同していると推測されると、當山善堂氏は『精選八重山古典民謡集(二)』で解説している。3年間の貢納免除は史実なのかどうか、史実だとしたらそれに尽力したのは与那覇主なのか、別の在番だったのか。謎は深まる。被災直後から免除されていたことを願うが、与那覇主が目の当たりにした光景が史実であるなら、到底不可能な貢納を7年間も強いられていたことになる。

 音楽家であり、役人として大いに昇進し、ついには西表首里大屋子(村の長)にまで出世した大浜善繁が作詞作曲したと伝えられる。1761年生まれなので、明和の大津波時にはわずか10歳。与那覇主の2年の任期が終わるころでも19歳である。リアルタイムで詠まれたとは限らず、功績を混同していることからも、後年に作られたと考えていいだろう。少なくとも、与那覇主が八重山にいる間に、この唄を耳にしたことはないのではないか。

 他の在番そっちのけで与那覇主の功績が盛りに盛られたのは、なかでは与那覇主がいい人だったからか。与那覇主の権力が抜き出でていたのか。大浜善繁は功績の混同をわかっていたのか。唄で取り入って出世したのか。等々、やはり謎は深まるばかりだ。

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