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唄はみんなのもの | 月夜浜節/唄いはじめ 6/東京から唄う八重山民謡

月夜浜節[つぃくぃやはまぶすぃ]
月夜浜だぎぬきしぬうらぬ木綿 ヒヤスリ 木綿花つくて木綿かしかきら

玉代勢長傳編『八重山唄声楽譜付工工四全巻』(1989)pp.11-13
※引用は2006年版から

 八重山民謡は、著作権がないらしい。現在の基準でいえば、著作者の死後70年が経過していれば著作権の保護期間は終了するのだから、仮に著作権がかつてはあったのだとしても、いま唄う分には特段問題ないのだが。

 著作権以前に、作詞作曲者がわからないものも多い。翻っていうと、いつ誰が作ったものなのか、そんなには気にしていないようだ。師匠もたまに「これは新しい唄です」などと説明することはあるが、わりと古い時代に成立した唄(八重山の土着の度合いが高いもの)と、新しい時代にできた唄(八重山以外の土地の影響が見られるもの)と大雑把に分けてはいるものの、具体的な成立年代に言及されることはあまりない。

 好きなものなら、自ずとその成り立ちを知りたくならないか。ついその思いに駆られる人がいても不思議はないどころか、昔のわたしならむしろ共感しただろう。やはり、いつ、どこで、誰が、どのように、それをつくったのか、ミンサー織の研究に着手したころ、とても気になったからだ。

 綿織物であるミンサー織の起源を16~17世紀ごろとする説がある。たしかに八重山には1642年に木綿栽培が伝わったようで、綿布が貢納されていた記録はある。その時代につくられた民謡に木綿が詠われているようだ。とまでは調べがついたのだが、果たして木綿栽培・綿織物生産開始当初からミンサー織が織られていたのかというと、そこまでは解明できなかったし、もっと時代が下ってからではなかろうかという立場をわたしは取っていた。この20年の間にミンサー織に関する研究は進んでいるが、いまだに起源が16~17世紀とは言い難いのではないかと思う。

 あちこちの資料に当たってミンサー織の起源の歴史的な裏付けを探しながらも、そのうちに、起源を追いかけることがどうでもよくなってしまった。答えが容易には見つかりそうになかったということもあるが、それ以上に、事実としていつからか受け継がれてきて、これからも伝えていこうとする人々の思いのほうが尊く映り、それを追求することに魅力を感じたからだ。

 だからわたしは、好きなものの起源を知りたくなる気持ちも、起源などわからなくても興味が尽きない気持ちも、相反する両方の思いが、こと八重山についてはわかるのだ。

 木綿が歌詞に現れる「月夜浜節」が、件の民謡ではないかといまでは思う。元歌である「月夜浜ユンタ」がすでにあり、平得与人(与人は役人の役職の一つ)だった黒島当応が自作の詩を追加し、三線をつけて「月夜浜節」に改作したのが1758年とされる。畑が木綿によって月夜の浜のように真白い、つまりすでに木綿栽培が盛んであるとユンタでも詠っていたのであれば、18世紀半ばの節歌の成立よりもだいぶ前に、栽培自体は始まっていたということであり、木綿栽培の伝来の時期とも符合する。

 「月夜浜節」の作者が判明しているおかげで、ミンサー織の起源を問うていた若かった日々を思い出した。懐かしく、くすぐったく、胸が高鳴ったが、同時にミンサー織で関心が傾いていったように、八重山民謡のそれぞれの唄の作者探しをするよりも、唄い継いでいる人々がいることや、長きにわたって後世に渡したいと思わせる力のある唄が数限りなくあることに圧倒され、飲み込まれて、わたしもその片端に連なりたいと願っている。

 クリエイティブなことを生業とする人には、現代の著作権は生きていく糧を得るために欠かせないのだけれど、誰のものでもなく誰のものでもある八重山民謡の包容力たるや絶大。「いずすどぅ主(ぬすぃ)」(唄う人が主役)という言葉があるほど、他所者のわたしでさえも、唄ってさえいれば、八重山民謡に心を養われ、抱かれ、守られている気になる。唄の作者たちは、数世紀後の東京に、毎週レッスンに通うほど熱を上げている輩がいるとは思ってもいまい。

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