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交差する感情 | つんだら節/唄い継いでいく 2 | 東京から唄う八重山民謡

つんだら節[つぃんだらぶすぃ]
とぅばらまとぅ我んとぅやヨウスリ 童からぬ遊びとうら
ツィンダラツィンダラヨウ
かなしゃまとくりとやヨウスリ くゆしゃからぬむつりとうら
ツィンダラツィンダラヨウ

玉代勢長傳編『八重山唄声楽譜付工工四全巻』(1989)pp.57-58
※引用は2006年版から

 黒島から石垣島の野底への強制移住を詠っていることは、第2章の7「強制移住とマラリア」で説明したとおりである。野底では毎年、この唄を唄うために「野底つぃんだら祭り」が開催されているそうだ。お祭りのメインに悲しい唄を据えることに意外さを感じてしまうが、地元の歴史と重ねて唄が大事にされていることの表れであることは疑いようがない。

 「つぃんだら」には「愛しい」と「不憫な」の両方の意味がある。なまじ「新安里屋ユンタ」の囃子のマタハーリヌツィンダラカヌシャマヨを知っていたこともあって、初めて師匠と先輩たちが唄う「つんだら節」を聴いたときには、楽しい唄なのかなと思ってしまった。聴いた後に師匠から歌詞の意味を説明され、自分の感性はどうなっているのかと息を呑んだ。楽しくないばかりか、真逆の悲劇のはずなのに、楽しいと聴こえてしまったなんて。

 唄っても唄ってもその感覚が拭えず、おそるおそる周りの人に、悲しい唄に聴こえるかどうか尋ねていた時期もある。「いや、聴こえないよ。楽しい唄じゃない?」と同調してくれることを期待したのだ。でも、八重山民謡をやっている人は背景を知っているせいか一様に「悲しい唄」と言い、八重山民謡に興味のない人には質問の意図がわからなかっただろう。わたしだけがねじくれて聴こえているのかもしれないというコンプレックスをさらに強めただけだった。

 むろん師匠にお尋ねしたこともある。だが真剣な顔で「唄にウムイが入っていないからだと思う」と言われてしまったら、「……精進します」としか返せない。唄が上手になったら、メロディが悲しみを帯びてくるなんてウルトラCが起きるのだろうか。

 などと悩んでいたころに、當山善堂氏の『精選八重山古典民謡集(二)』で、「つんだら節」が「陽音階」とあるのを発見した。初めて目にした音楽用語だったが、陽の字に希望を感じて、辞書を引いた。国語辞典の解説は理解を超えていたが、子ども向けの辞典には「半音をふくまない明るい感じの五音音階」とあった。よかった。わたしの感性がおかしかったんじゃないんだ。明るいメロディだったんだ。

 そうとわかってホッとしたものの、自ずと次の疑問が湧いてくる。なんで悲しい歌詞を、明るいメロディに当てたのか。同じ唄を聴いて、悲しく思える人がいるのか。

 いまなお答えに到達しているわけではないのだが、ヒントになるのではないかと思っているものがある。「崎山ユンタ」だ。これも強制移住について取り上げた「崎山節」と同じ歌詞で、「崎山節」よりも前に成立した唄である(第2句以降は囃子を省略した)。

崎山ユンタ[さきやまユンタ]
崎山ゆ新村ゆたてだす サユイユイシューラヨイヌハリユバナウレ
なゆぬゆんいきゃぬつにゃんどたてだね
ぬばまふつかにく地ぬゆやんど
波照間ぬ下八重山ぬうつから

玉代勢長傳編(1988)『八重山民謡舞踊曲早弾き工工四』pp.89-91
※引用は2006年版から

 キリキリとした悲劇性を漂わせる「崎山節」とはまるで違うメロディだ。ユンタは掛け合いで唄われることが多く、「崎山ゆ~」が男声なら囃子の「サユイユイ~」が女声、第2句では交代して歌詞を女声、囃子を男声、と交互に唄っていく。

 これもメロディに活気を感じて、「悲しくないように聴こえるのですが」と師匠に質問したところ、平然と「ユンタだからね」との答え。ユンタは労働歌であり、農作業中や農地への行き帰りなどに唄われた。たしかに、しっとりしていたり陰気なメロディだったら、労働意欲が下がってしまう。それではユンタの意味がない。

 しかし歌詞に織り込みたいのは、楽しいことばかりであるはずがない。つらく悲しい歌詞でも、明るく陽気なメロディに乗せて、つまりユンタで感情を相乗りさせながら、労働しつつ、唄って自分たちを奮い立たせつつ、事象や歴史を語り継ぎ、仲間意識を育んできたのだろう。唄には感情を相乗りさせることができるという文化の上に、「つんだら節」も作られたのではないかと思う。

 メロディが明るくても、悲しいものは悲しい。あるいは明るいメロディと結びつくことによって、相乗りさせなければ悲しみを発露させられない境遇が強調され、いっそう悲しみが増すものなのかもしれない。

 わたしが持ち合わせていた、学校の授業で習った程度の音楽の知識では、長調は明るい曲、短調は暗い曲だった(単純化しすぎとは思うが)。歌詞とメロディで感性が異なることもあるのは、なにも世界中で八重山民謡だけはないだろう。唄というものが、楽しいものは楽しそうに、悲しいものは悲しそうに、ただ一方向の感情だけを表現するものだというのは、ただの思い込みや、音楽にわかりやすさを求める願望でしかない。だって、日々を思い返してみても、感情の二律背反などよくある話なのだもの。

 地方色の色濃い文化は、ともすると素朴で原始的だと語られがちだが、どっこい八重山民謡が投影する感性はよほど複雑である。

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