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「捨てるに捨てられない」

かなり以前から、断捨離の嵐が吹き荒れているが、まるで、生活防衛の為、公的機関のキャンペーンの様に執拗であった。場合によっては親子兄弟、親戚縁者、友達、知り合いなどとの著しいマイナス面があれば、付き合いをやめる様、勧めていた。更に保険をはじめ、資産を処分したり、あらゆるものを対象にして捨てたり、やめたりすることも呼びかけていた。

我が家でも思い当たる物事がある。ことなかれ主義の私が、何十年もだらしなく、管理出来なかったものを処分されても文句は言えない。せめて妻に見つからない様に気を付けているが、先方は、当にお見通し。これまで見て見ぬふりもしてきたのであろう。もう我慢の限界かも。密かに?捨てられたものも少なからずあるようだ。放置していた所為で、時たって気付いても後の祭り。当然、整理、処分、見直し等を迫られている。でも、まだ拘りがあり、捨てたり、処分できないものもあるのはどうしょうもない。

門外漢であっても、気に入ったものは、購入することがあった。頭初の西洋人形は、通りがかりの店で、我々夫婦に贔屓目ではあるが似ていると思い、我が家に連れて来られた。今では、何十年も経ち、シミがでているので、度々、捨てる様に言われているが、思い切れない。益々存在感が増して愛着がある。ほとんど読んでいない本の数々。タイトルと相まって、内容を知リたくて購入したのに、未読で、処分するのは、小さな目標でも達成出来ない、自分の駄目さ加減を見るようで忍び難い。背広、ネクタイの類い。この背広に、このネクタイの思いは叶わなかったが、大病して痩せたお陰で、僅かに残っていたものも着る事が出来た。面目躍如。他に器等、幾つかあるが、人様に自慢できる様なものはない。後は、処理していないメモの束、束、束。一生を通じて、羽振りがいい時が少なく、趣味も道楽もなく、彩りの少ない人生なので、人様のように、捨てるもの等殆どない。寧ろこれから、色々な縁、絆を無理なく、求めようとしている自分が、時代錯誤であり、今浦島を感じ、世代の人間としても浮いている存在だと気付かされる。

そんな訳で、いい歳をして、まだ何かを捜している。余程のことがない限り、高年齢では、新たに、人との穏やかな関わり合いを求めるのも難しい。人は、ある種の達成感、諦観を持ち、人生の晩年に、粋がったり同情を買っても始まらない。無理なく、その輪の中に入り込むのは、至難の業。最近、Aさんが店に顔を出さない。お客様ではないのだが、最初に出会った時、夕食も忘れ、4〜5時間喋り続けた。以来度々訪れ、食事にも5〜6回誘われたが、スルーしてきた。彼は、地元の進学校出身で、大学にも行き、理知的な人間で、知識が横溢しているが、自己中で、人に合わせることをしない。恐らく実社会で、勤めることもできず、自営業で、辛酸を舐めてきたのだと思う。最新の情報を持ち、各人にフィットすることを考えれば、重宝がられて、彼自身も生き易いのではないだろうか。人様にアドバイス出来る立場にないが、ずーっとそんな事を考えていただけに、話が出来ずに、残念に思う。失礼な話だが、自分が、はぐれ鳥みたいなものだから、そんな人が余計気になる存在なのである。







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