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くり返す「写真はどうする」問題

実家の仏間に並んである遺影写真は4枚。
会ったこともない父方の曾祖父母と
30年前に亡くなった父方の祖父と
10年程前に亡くなった父方の祖母。
幼い頃、祖父の肖像写真だと思っていたものが
曾祖父の遺影と知ったときは似すぎていて驚いた。
遺影というものの存在を知ったのは、その時だった。


実家にある4枚の中の1枚。
祖母の遺影は 私が作った。
が、作るまでが大変だった。

約10年前のこと。
祖母は突然旅立った。
90歳を越えて大往生とは言われたが、あまりに突然だった。

その夜は案の定ドタバタ。
すぐに「写真はどうする?」問題がやってきた。
祖母が持っていた写真はアルバムに挟まれることなく
お菓子の箱にまとめられていた。
写真の束はたくさん出て来たけれど、
大事にしていたものは
孫、ひ孫の写真ばかりで
祖母が写っているものはあまりに少なすぎた。
慌てた母から私に指令が下され、
祖母の写真探しが始まった。

なぜ私に求められるのか というと、
私が写真屋だから という理由である。
二十数年写真に携わっていると、
折に触れ、撮るべき機会で撮っている。
どこかにいつかの何かの写真があるのではないか?
ただそれだけ。
「あの時のあの写真」という確定要素は誰にもなかった。

探せば出てくるのは撮っていればの話である。
撮っていない物はいくら探しても
当然のことながら出てこない。
ほぼ賭けのような写真探しが始まった。

私が保存していた祖母の写真の中で
遺影に使えそうなものは3枚だけだった。

1枚目はウチの長男の初節句の時
ひ孫を抱っこした写真だった。
2枚目は私の結婚式の前日
式場近くの旅館で親戚が集まって食事をしている時に撮った
私とのツーショット。
孫13人の中で最初に嫁いだのが私だったから
本当に嬉しそうな顔をしていた。
3枚目は少し前に私が実家で祖母をなんとなく撮った1枚だった。
時間的に一番新しい写真だったけれど
表情が元気ではなかった。
私が想い出す祖母の顔ではない。
これは使わないだろうと思いつつもバッグに入れた。
どれを使うかをは、父や母に任せようと思った。
その時は。

何度も言うが、撮っていないものは
いくら探しても出てこないのだ。


背景を変えたり、洋服を着せ替えたり
その辺りは思うように変更出来るので、
決め手は表情だけ。

でも、私は首から下を「作り替える」ことをしたくなくて、
祖母のそのままを使いたいと口を出してしまった。

祖母は着るものにとても気を遣う人だった。
襟がきちんとあるものを選び
キラキラ光るものは避ける。
七分袖は嫌い、手首まできちんとある袖を好んだ。
ちょっとそこまで も
部屋着で出掛けることは許さなかったし、
若者が好む「流行」と言われるような格好を嫌った。
何度か注意されたことがある。

大人になって、祖母に洋服を贈る時は
絶対に気に入ってもらえると確信出来ないものは買わなかった。
洋服に厳しいことは知っている。
だからこそ、
自分の遺影が自分の洋服ではない写真なんて、
祖母が納得するだろうか…と思った。
私には私の想いがあったのだ。

結局遺影に選んだのは
ウチの長男の初節句の時の写真だった。
ひ孫を抱っこしている祖母の表情が悪い訳がない。
お祝いごとに招いたのだから
気に入らない洋服を選んでいる訳がない。
この写真なら祖母は納得するのではないかと想像した。
本当に祖母が納得するかどうかなんて
確認しようもないのに。
答えはないのだ。


決めた写真で遺影を作り、
葬儀は無事終わった。
家庭を持った私は、実家に長居もしていられない。
葬儀の翌々日からは普通の毎日がやって来る。
子どもたちの学校もあれば、仕事もある。

しかし、これが虫の知らせというのか
母の様子が気になって 四十九日の法要の前に、一旦実家に戻った。

仏壇の前に座り、祖母の写真を見ながら線香をあげた。
私の斜め後ろに、母も腰を下ろした。
「あのね」
その声は、あまり良い話ではない気がした。
でも何か、大切な話のような気がして
母に向き合った。


「この遺影ね。毎日見るの。
 朝晩、お茶あげて、線香あげて。…この数日ずっと。」

母と祖母は嫁姑だが、
母にとっては、実母と過ごした時間よりも義母と過ごした時間の方が圧倒的に長くなってしまった。
仕事で留守がちだった父より 遥かに密な時間を過ごしてきたと言える。
その母が口にしたのは、私の鼻っ柱を折られるような話だった。


この遺影のおばあちゃんの表情はちょっとよそ行きで、
母さんと一緒にいた、いつものおばあちゃんじゃないのよ。
折角作ってくれたけど、遺影を作り直すことは出来ないかな?
これから先も、この写真を見ていくのは
淋しくなる日が来るような気がするのよ。


祖母の気持ちを想像して、
私が選んだ写真は、
母にとってベストな写真ではなかった。
誰より一番祖母を偲んで
見る時間が長いのは母だ。
家を出て違う生活をしている私ではない。
遺影選びに母の思いに寄り添えなかったのは、私の落ち度だ。

母がこれにして欲しいと差し出したのは、
私の結婚式の前日に
旅館で撮られた私とのツーショットのものだった。
確かに良い表情をしている。
私の記憶にもあるおばあちゃんの顔だった。
なのになぜ その写真を避けたのか。

旅館であるが故、祖母は浴衣を着ていたのだ。
今になってみれば加工で洋服にしてしまえば済む話だった。
なぜ、そんなことにこだわったのか。
母には申し訳ないことをしたと思う。
四十九日の法要までに新たな遺影を作り直し、間に合わせた。


私がカメラを持って間もなく、
「写真を撮って欲しい」と祖母に言われたことがある。
遺影のことを指していると気付いたが、
あの頃の私は、後悔しない肖像写真を撮れるほどの腕はなかったし
何より、そんなものは今の時点で、まだ考えたくない
と思っていたのも確か。
あれが祖母の願いなのであれば
技術云々よりも撮ってあげていれば良かった。
耳も遠くなかったし、表情は豊かだった。
意思の疎通もしっかりできていたのに…。
今は後悔しかない。
最後に撮った祖母の写真は
記憶の中の祖母と違いすぎて、正直使いたくなかった。
最新の写真が良いわけではない。


母が思いきって話してくれたおかげで
これから先も仏間で見上げる祖母は
記憶の中にある祖母の顔だ。


仕事柄、こういう場面の相談はよくされる。
ご家族の気持ちに寄り添うことが何より大切。
分かっていたけれど、あの日改めて気付かされた。
あれから十年経った今も
正座して母と向き合った日のことは鮮明に覚えている。

私がこの仕事をこれから先も続ける限り
いついかなる時も忘れてはいけないと
肝に銘じた。


母の実家の仏壇には小さな写真が2枚飾られている。
これは会ったことのない、母方の祖父母。
私が母の両親を知る唯一の手がかり。

優しそうなおじいちゃん…とは言いがたい。
決して怖い印象があるわけではない。
若くして亡くなったので写真の祖父はきっと私よりも若い。

私が母のお腹にいた頃亡くなった祖母。
時々母が、祖母の話をしてくれる。
それでも、もっと祖母の話を聞いておけば良かったと
年を取ってから思う。

母が私に祖母の話をしてくれたように
その人のことを語ってくれる人がいれば良いが
この先、語り人はいつかいなくなる。

そうなると、写真だけが唯一の情報源。

遺影は葬儀の時だけのものではない。
これから生まれてくるであろう、自分の子孫たちが
自分のことを知る貴重なアイテム。
出来るのであれば、納得出来るものにしておきたい。
だって、写真の印象だけで
「怖そうなおばあちゃんだったんだね」
って子孫に思われたくはない。


「終活」という言葉が定着した現代でも
自分があちらの世界に行ってからの心配なんてしたくない
と仰る方もいた。
随分若い頃の写真だと言われても
しわくちゃの顔よりも自分が一番キレイだった時の写真を使いたい
と仰る方もいた。
今現在、めちゃくちゃ元気だけど
もう一線を退いた以上、既に自分で準備している
と仰った方もいた。
こればっかりは各々の意志に基づくやり方で決めてもらうしかない。

一方で、
私も年を取り、自分の身内に近い人たちを見送ってきた。
その度に繰り広げられる写真探しは、恒例になりつつある。
私のところにはあるかもしれない
という理由で、何度探したことか。
撮っていればあるが、撮っていない物は探しても見つからない。
世の中の見送る家族の大半は、
こんな夜を過ごしているのではないだろうか。

母のような想いもして欲しくはない。
だから出来れば当人と、
その後、偲んでくれる家族と、
納得出来る1枚を見つけていて欲しいと願う。

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