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アイドルタイムいとぶろ⑤

 カレーを食べた。牛のキーマと鷄のキーマと、二種類のカレーが盛り合わせられているカレーを食べた。ムシャムシャと食べた。バクバクと食べた。牛のキーマカレーには果物がゴロゴロと、鷄にはすり潰された豆腐がびっしりと、どちらも大袈裟にならない程度にスパイスで調合されていて、その、頭の悪い表現が許されるのであれば、身体に優しい味がした。
 僕にしてみれば珍しく時間をかけて咀嚼したつもりが、来店時にすでに席についていた老婆よりも先に店を出た。なぜだか損をした気分になった。
 ゆっくり。
 のんびり。
 のほほん。
 およそ、そんなスタイルとは無縁の生活を送ってきたせいか、何をしても、何を食べても、何も読んでも、まるで何かを得た気分になれない。一つのものをじっくり咀嚼する、ということができず、だから、何一つとしてまともに身につかない。
 結果、僕には何も残らない。
 悲しくなってくる。
 わざわざ大阪まで来ておいて、悲しくなっているようではダメだ、と思った。
 カレー屋を出て、商店街のなかを眺めるふりだけして歩き抜ける。そういえばカレー屋に行く前に、公園でおばさんと警官が何やら揉めていた、と、そんなことを思い出すころには商店街の果て。今更引き返して確認したくなるほどの事柄でもなく、僕はそのまま大通りをまっすぐ歩き続けた。四年間住んでいて、ついに一度も行くことのなかった商店街だったのに。初めての商店街だったのに。きっともう二度と足を運ぶことはないだろう商店街だったのに。
 Googleマップを確認する。どうやらこのまままっすぐ歩けばやがて心斎橋に辿り着くらしい。
 明確に目的地を設定しないまま大阪までのこのこやって来た僕は、だから、とりあえず心斎橋を目指すことにした。
 右手には大きなトートバッグ。
 中には冷凍保存された僕の手足が4本。
 重い。
 リュックにしなかったことを後悔した。
 こうなることは十分に想定できたはずなのに……。
 目的地こそ設定していないものの、目的自体ははっきりしている。
 理由を用意すること。
 いちごちゃんが大阪へ向かう理由を、先回りしてあらかじめ作成しておくこと。
 あらかじめ作成していたことにすること。
 そのために、強烈で尚且つ徹底的な“僕“というものが必要だった。付け入るスキもないほど圧倒的で尚且つ物理的な“僕“が必要だった。
 オーケー。
 物はある。
 であれば、あとは単純だ。
 であれば、あとは堅実だ。
 であれば、あとは現実だ。
 だというのに、
「……買ってしまった」
 なぜか僕はアメ村でTTT_MSWのダメージニットを買っていた。
 ちょっと実物を見て、あくまで試すだけの気持ちで試着したつもりが、気づけばクレジットカードを出して会計を済ませていた。

 ずしりと、ただでさえ必要以上に過剰な手荷物が、その重量を増す。
 今月の支払いだってギリギリなのに。
 店を出ると、雨が降っていた。慌ててコンビニに駆け込んでビニール傘を買う。また荷物が増える。ビショビショの路面を嬉々として駆け回るような童心も体力もすでに失っている僕は、だから、傘と一緒に買ったリアルゴールドをチビチビと舐めながらしばらく雨の勢いが弱まるのを待つことにした。

 こんなことをしている場合じゃないのに、という焦燥感と、でも、どうせなら旅を楽しみたい、という我儘とがせめぎ合う。
 とにかく、まずなによりも先に目的を達成してしまいところだが、しかし、雑にそれを成してしまうわけにもいかない。
 いちごちゃんが目指すべき場所は、とても劇的で、とても神秘的で、とても確信的な場所でなくてはいけないのだ。それこそ、物語のクライマックスに耐えうるほどの場所でなくてはいけないのだ。僕といちごちゃんの関係性が真に強い場所でなくてはいけないのだ。今はまだ、具体的には思いつかないけど。でも、実際に大阪に来て、実際に大阪を歩き回って、実際に大阪を感じれば必ずそこに辿り着けるはずなのだ。
 そこに辿り着きさえすれば、奪われたものを全部奪い返すことができる。
 いちごちゃん。
 名探偵。
 無謬の存在。
 唯一無二の指針。
 考えて、考えて考えて考えて、自分で決めてここまで来た僕が、今更間違えるなんてことはあってはならないのだ。
 雨が弱まってきて、まだ半分以上残るリアルゴールドを捨てて、傘をさした。
 
 さて、
 歩き回る、と云っても限界はある。
 肥後橋駅の近くにある服屋で音が鳴るパンダ(云うまでもなく家で留守番中のパンダへのお土産だ。これを転がして遊ぶパンダはさぞかし滑稽だろう)と伊良コーラ(ルートビアような一風変わったコーラが好き)を買い、その足で福島にあるという雑貨屋?骨董屋?服屋?に向かっている途中で、足がダメになってしまった。
 もう、歩けません。
 いや、本当に。
 とても切実に。
 いつの間に、僕はここまで極端に体力がないキャラになってしまったのだろう。
 諦めて、橋の途中に座り込む。本当ならせめてどこかの喫茶店にでも入るべきなのだろうけど、残念ながらちょうどいい喫茶店を探すような体力すら残っていなかった。
「やっぱりタクシーにすればよかったかな」
 その店を勧めてくれた肥後橋の服屋のオーナーも、徒歩は厳しいと云っていたのに、なぜか僕は自分の足で歩くことを選択してしまった。ただでさえ、元々あった荷物と、新しく購入した荷物とでいっぱいいっぱいだと云うのに。
 もうすっかり雨も止んで、せっかく購入したビニール傘をどこかに放棄することを本気で検討したい。
「しかし、人、あんまいないな……」
 僕が大阪に住んでいた当時からこんな感じだったっけ?平日だからだろうか?それとも、僕が東京の人混みに慣れすぎたのか?アメ村ですら閑散としているように感じた。最寄りの阿佐ヶ谷駅と大差ないくらいの人しかいない、とすら思った。
 伊良コーラを飲み(変な味だった。好きだ)、しばらく座り込み体力をほんの少し回復させたところで、僕は再び立ち上がり、あらためて福島へ向かうことにした。
 福島なんて、大阪に住んでいた当時も数えるほどしか足を運んだことがないのに。
 橋を抜け、高架下を延々延々と歩く。
 しばらく歩いて、ようやく目的の店が見えてきた。古民家を改修したような、パッと見では店ともわからないような佇まいの場所だった。僕の体感だが、大阪に新しくできる店のおよそ九割は古民家を改修する。
 そこでは仏を模した小さな置物を買った。
 昔に祈った人。
 願わくば、その威光に、少しでもあやかることができれば……。

 帰り際、梅田の夜景を西側から見た。
 キラキラしていて、僕はちょっと泣いた。

    * 

 結局、何も得ることができないまま、一日目は幕を閉じた。
 次の日は大阪に住む弟の部屋で目が覚めた。床の上で寝たからか、身体がバキバキに痛かった。
 こんなことならホテルでもとればよかったか……と、今更だが少し後悔する。gotoとか使えばほとんどタダ同然でホテルに泊まれるという話を聞いた。生活がいっぱいで、新幹線のチケットを取るだけで力尽きてしまった。
 しかし、ホテルとは違って、身内の部屋は居心地が良い。コンビニで適当な朝食を買ってきて、ダラダラとしているだけであっという間に時間が過ぎるほどに。
 気がつけばもう十一時過ぎだった。
 こんな調子じゃ、ますます普段の生活と何も変わらない。大阪まで来ておいて、それではあまりにも滑稽だ、と思った。
 慌てて身支度をして外に出た頃にはもう時間は十二時近くで、とりあえず僕は梅田に行き、むかし何度か行ったことのあるラーメン屋へ足を運ぶことにする。
 醤油の濃い味付けが好きで、何度か通ったラーメン屋だった。いちごちゃんとは一度も来たことはないけれど。
 昨日からずっと考えているが、僕は大阪でいちごちゃんと過ごした記憶を何一つ思い出すことができていなかった。
 これっぽっちも、完膚なきまでに、皆無だった。
 まあ、でも、そりゃそうだ。
 いちごちゃんの存在は嘘だから。
 たとえ五十嵐がどう云おうと、いちごちゃんは本当には存在しないのだ。
 本当には存在しない存在がいちごちゃんだ。
 だから、大阪でのいちごちゃんとの思い出など、現実には存在しない。思い出せるものなど、はなからそんなものありはしないのだ。たとえ何か思い出せたとしても、それは全部嘘なのだ。
 どこからどこまでも嘘でしかない。
 それどころか、
 大阪に来て、僕はまだ一度も郷愁を感じていなかった。
 今日までここに住んでいたと云われればそのまま信じてしまいそうな、
 今日からここに住んでくれと云われればそのまま受け入れてしまいそうな、
 どうしようもなく、日常の延長でしかない。
 あれ?
 という、肩透かし感。
 もっと、こう、何かあると思っていた。
 もっと、こう、何か去ると思っていた。
 もっと、こう、何か得ると思っていた。
 どこに行けばいいのか本気でわからない、という徒労感だけがあって、
 どこが目的地なのか?と問われると、困ってしまう。
 まるで全てが出来の悪い嘘のようだ、と思う。

 ラーメンを食べ終え、当て所もなく歩いていると思い切り道を間違えて、梅田の右に来てしまった。むかし建てられた鳥居が、大きな道路の途中に生えていて、怖いな、と思った。
 慌てて道を引き返し、中崎町へ向かう。
 中崎町はなかなか賑わっていて、僕はずっと行ってみたかった服屋でsolaris&coのリングを買った。蛇がモチーフになってるやつ。また買い物してしまったという罪の意識から逃れるために適当な店でコーヒーを飲んで落ち着き、それから、今度は葉ね文庫という本屋に行った。欲しい本は幾つかあったが、昨日と同じ轍を踏むわけにはいかない。何も買わず、店の前に「自由にお持ち帰りください」と書かれたマッチをポケットに忍ばせるにとどめた。その後ジュンク堂に行くが、ここでも荷物になることを理由に何も買わなかった。荷物になることを気にした途端、街を歩いても何も楽しくないことにようやく気づく……というか、どうも、買い物する場所しか行き先が思いつかない僕の精神構造に問題があるようだった。買い物依存症もなかなか辛い。しかし、ほかにすることなど、本当に、本当に何一つ思いつかないのだ。どうすれば楽しくなれるのかわからないのだ。
 気がつけば夕方だった。
 僕は何をやっているんだろう、と思った。
 トートバッグは相変わらず重たいままだった。
 電車に乗って、JR伊丹駅で降りた。
 伊丹駅は思っていた以上に栄えていた。多くの人が、吸い寄せられるようにイオンに向かっていた。
 僕もイオンに向かった。
 何があるというわけでもないけど。
 イオンにはダブミヤがいた。
「どうも」
「わ、お久しぶりです」
 それから、僕たちは伊丹駅にネビュラ今子がいるという情報を頼りに、駅へと戻ることにした。イオンを出たところで、中高生くらいの男の子たちがさみぃ、と縮こまっていた。僕も、寒い、と思った。
 伊丹駅とイオンを結ぶ橋のしたには川が流れている。
 伊丹駅に、はたしてネビュラ今子はいた。
「こんばんわ」
 僕たちはそのまま電車に乗って、尼崎で降りた。尼崎の駅前もそこそこに栄えていた。大きなショッピングモールを抜けると何もなくなってしまって、それだけが悲しかった。
 僕たちはショッピングモールの裏にある串カツ田中に入った。
 運ばれてきた串カツを、なんとなく写真に撮って友人の漫画家に送る。既読はつかない。
 串カツにソースをかけながら(不思議なことに、なぜかボトルに入れてソースを渡された)、僕たちはたわいもない話をした。今二人がハマっているVRのゲームの話や、今はもうここにはない、どこにもなかった季節の話をした。隣に家族連れがいることなど構わずにちんことまんこの話をした。すると、途中でなぜか串カツ田中を追い出された。
 仕方なく僕たちはサイゼリヤでワインを飲み、カラオケに向かった。カラオケに行くとjin doggが順番待ちしていて、じゃあせっかくということで一緒に歌うことにした。
 jin doggがシャウトする。
 jin doggのシャウトに呑まれて、僕たちはあらんかぎりの力で手足を振り回す。
 無様に、
 軽やかに、
 規則正しく、
 何もかも無視して、むちゃくちゃに、
 ダブミヤと、ネビュラ今子と、jin doggと、
 狂ったように僕たちは踊った。
 明日、僕は東京に帰らなくてはいけない。
 トートバッグの中には、僕の手足がまだ4本ある。
 
     ✳︎
 
 次の日も弟の部屋で目覚めた。あいかわらず、身体はバキバキに痛かった。
 朝食を食べに行こう、と弟が云うので、顔も洗わないで外に出た。空は曇っていて、少し肌寒かった。
 冬が来ようとしているのだ。
 大阪、最後の一日。
 近くの商店街にある喫茶店に入り(大阪は商店街だらけだ)僕はシナモントーストを、弟はスクランブルエッグトーストを注文した。手をシロップでベタベタに汚しながらシナモントーストをかじる。弟が、何時頃出る予定?と訊くので、お昼前かなぁ、と僕は曖昧に答えた。
 しかし、なんだろう、
 なんか、
 疲れた。
 僕はすっかり疲れてしまった。
 奪われたもの全部奪い返すために大阪へ来たのに。
 考えて、考えて考えて考えて、ようやく大阪まで来たのに。
 それなのに、疲れてしまった。
「今日はどこ行くん?」
 と、弟が訊く。
「ラーメンでも食べて帰ろうかなぁ」
 と、僕は答える。
「二郎系が食べたいな」
「そんなん、東京で食えよな」
 と、弟が笑う。
 確かに、それもそうだな、と僕は思った。
 
 それもそうだな、とは思ったものの、それでも僕はラーメンを食べた。心斎橋の店だ。むかしに一度だけ入ったことのある店だ。もちろん、いちごちゃんとの思い出はここにもない。縁など、はなからない。どこにもそんなものはありはしない。どこにもないものを追いかけて、僕は遥々大阪まで来たのだ、と思うと、はじめからわかっていたことなのに、なぜか僕は無性に切なくなった。
 ラーメンを食べ終えた僕は、地下鉄に乗りもう一度梅田に向かった。
 常に変化し続け、誰にもその全体像を掴ませることのない梅田の地下街をあてもなく歩く。
 時間は十四時。
 新幹線の時間は十九時。
 僕の手足はまだトートバッグのなかにある。
 目的は達成できず、奪われたものを何も奪い返せず、僕の旅が、終わろうとしている。
 なんとなく高いところに行きたくて、大阪駅から屋上庭園に続く長いエスカレーターを登った。屋上庭園はそれなりに賑わっていて、曇り空だと云うのに多くの人が外の風景を写真におさめていた。
「……そういえばこの下って蔦屋書店だっけか」
 本をディスプレイに使うカフェに興味はなかったが、学生時代お世話になったジグソーハウスという古本屋が蔦屋書店の一角に本を置いていることを思い出し、僕は登ってきたばかりのエスカレーターをくだることにした。
 蔦屋書店の店内は人で溢れかえっているのに、古書コーナーの棚には僕を除けばたった一人の人間しかいなかった。
 なんとなしに棚を眺める。知らない作家、知らない作家、知らない作家、知っている作家、知らない作家、無名の作家、有名の作家、むかし死んだ作家、今も書いている作家、今はもう書いていない作家、生きているのか死んでいるのかもわからない作家……。雑多な、だけどジャンルだけは統一された本棚を、しゃがみ、膝を抱きしめ、眺める。
 ミステリ。
 もうすっかり忘れてしまっていたが、むかし、僕はミステリが好きだった。
 名探偵。
 無謬の存在。
 唯一無二の指針。
 密室や首切りや見立てやメタや神様や愛や館や作中作や多重推理や探偵神や妹やカニバリズムや祈りやサーガや、そんなものだけを摂取して、それで幸せだった時代。
 なんて、
 そんな過去も、ディテールが嘘や幻で塗り固められた、今はもうここにはない、どこにもなかった季節の話なんだろう。
 諦めて立ち上がろうとすると、
「×××くん?」
 今では誰も呼ぶことのなくなったはずの名前で、急に呼ばれた。顔をあげると、そこにはもう名前も忘れてしまった、むかしの人がいた。

「しかし、懐かしいね。東京に行ったって聞いたけど」
 場所を変え、食堂街にある喫茶店。分厚いたまごサンドを崩さないよう、慎重に口に運ぶもののトマトが噛みきれず、たまごがぼろぼろとこぼれ落ちた。
「久しぶりに帰ってきたんだ」
 食べかけのたまごサンドを一度皿に避難させ、こぼれたたまごを拾いながら答える。
 ふぅん、と、その名前も忘れてしまった彼は頷いた。
「でも、地元、たしか鳥取じゃないっけ」
「それを云われると、」
 よわい。
「ていうか、よくわかったね。僕のこと。実際に会ったこと、一、二回しかないのに」
「そりゃ覚えているよ。結構、印象に残ってる」
 と、彼は笑うが、しかし、三年も四年もずっと人の記憶に留まっていられるほどの価値など僕にあるはずもない。もともと、人の顔を覚えておくのが苦ではないタイプなのだろう。あまりリアルなイベントに顔を出さなかった僕とは違って、彼はそういうイベント毎には積極的に参加していた記憶がある。
「×××くん、急にいなくなっちまうんだもの。みんな、寂しがってたぜ」
「……ふぅん」
 あまりにも、あまりにも、今の僕とはかけ離れてしまったその名前で呼ばれると、妙にそわそわしてしまう。
 むかし、とても、むかしの名前だ。幸福な時代の話だ。ミステリのことだけを考えていれば、それでよかった頃の記憶だ。みんなが同じ本を読んで、同じような感想を云う空気に耐えきれず、いつしかログインすることのなくなったアカウントの話だ。
 それでも、青春だった、のだとは思う。
「最近どう?本は読んでる?」
「ぼちぼち、かなぁ。そっちはどう?大学は卒業できた?」
「いや、これがまだなんだな」
「今、何年?」
「7、いや、6?」
「やべー」
 たまごサンドを綺麗なまま口に運ぶことを諦め、スプーンでたまごを崩しながら、そんな、なんてことのない、たわいもない、情緒も情景も情念もない、どうでもいい話をしていると、なぜか僕は少しだけ泣きそうになる。
「そうそう、今、本作っててさ、文フリあたりで売ろうかなと」
 苦労してたまごサンドを食べ終えたタイミングで、彼がそう云って鞄から薄い本を取り出した。
「ほお」
「ていうか、もう二冊目なんだけどね。合同誌作ってるんだ。前回のテーマは日常ミステリ。今回はライト文芸。創作批評なんでもありのやつ」
 手渡された本を読むでもなく、パラパラとめくる。知った名前や、知らない名前が乱雑に並んでいた。
「メンバーは?」
「不定、かなぁ。固定で書いてくれてるのは、×××くん知らないかもだけど、毛ガニさんって云う人と、あと、幼なじみにまだ浪人中のやつがいて、その二人」
「幼なじみって、なんだっけ、たしか僕もフォローしてた気がするな」
「ああ、そういうえばそうだね。まあ、そいつも、もうアカウント消して、今は真面目に勉強してるみたいだけど」
「へぇ」
「×××くんもさ、何か書いてみない?」
「……うん?」
 唐突な提案に、僕は一瞬言葉に詰まる。
「ほら、前に一作書いてたじゃない」
 なんのことだろう、と頭をめぐらせて、そういえばむかし、誰かが作った合同誌に一作だけショートショートを載せたことを思い出した。 
「あぁ」
「あれ、結構好きなんだよね」
「……それは、なんというか、ありがとう。あんな、悪ふざけみたいな小説を、」
「でも、面白かったぜ」
 と、笑う彼を見て、僕は気づく。
 
 僕はまた間違えていた。
 
 何もないなんて、それこそ嘘なのだ。
 何もないなんて、そんなわけがないのだ。
 何もないなんて、それはあまりにも失礼な話なのだ。
 何もないなんてのは、そんな、そんなのは、戯言だ。
 色々な人たちと、もう関わることもないだろうと思っていた人たちと、いつも一緒に踊ってくれる人たちと、うんざりするほど叱咤してくれる人たちと、たまに励まし応援してくれる人たちと、暇なときに遊んでくれる人たちと、僕を外に連れ出してくれる人たちと、一度だけ会ってそれだけの人たちと、喧嘩して気まずくなった人たちと、自分から縁を切った人たちと、向こうから縁を切ってきた人たちと、いつの間にか疎遠になっていた人たちと、一瞬だけ仲良くしていた人たちと、時間潰しのためだけに付き合っていた人たちと、一緒にお酒を飲みに行ってくれる人たちと、こんな僕を仲間に入れてくれた人たちと、こんな僕だから線を引いて追い出した人たちと、なんでもないがゆえに馬鹿にしてきた人たちと、何かを感じて勝手に期待してくれた人たちと、会ったことも喋ったこともないインターネット上の付き合いだけの人たちと、会ったことも喋ったこともあるけどインターネット上の僕を知らない人たちと、僕に間違った知識を教えてくれた人たちと、僕に考えるきっかけをくれた人たちと、僕の思想の奥底に沈殿する人たちと、僕の思考に何の影響も与えることのできなかった人たちと、
 僕の過去にしかもういない人たちと、
 僕の現実に今もまだ関わる人たちと、
 そして、今はもうここにはいない、どこにもいなかった人と、
 それでも、なんであろうとも、彼らと同じ時間を共にした、という事実は、あるのだ。
 ちゃんと残っているのだ。
 同じフロアで、違う価値観で、僕たちは踊ったのだ。
 いちごちゃん。
 名探偵。
 無謬の存在。
 唯一無二の指針。
 本当には存在しない存在。
 それでも、僕のなかにはいちごちゃんの言葉がある。
 それでも、僕のなかにはいちごちゃんの思想がある。
 存在しないはずのものだからこそ、僕たちは、祈る。
 
 彼への返事は保留にして、僕は一人で蔦屋書店に戻り、古本で『黒い時計の旅』を買った。ミステリではないけど、大学生のときに読みたくて探し回った本。繋がっているのだ。繋がっている、と僕が信じていられるうちは、少なくとも。
 軽くなったトートバッグに、買ったばかりの『黒い時計の旅』を詰めた。
 
     *
 
 予定を変更して、十八時の新幹線で東京に帰った。文フリで尊敬する作家が本を売り、宇宙でchillする東京。僕が住み、住んできて、今も暮らす街。
 
 バキバキの身体を引きずり、なんとか家まで到着する。
「ただいま。おい、ちょっと出てきて手伝ってよ。お土産あげるから」
 玄関で声を張り上げるが、パンダからの返事はなかった。

いとうくんのお洋服代になります。