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アイドルタイムいとぶろ⑥

 パンダがいなくなって一週間が経った。その間、僕は仕事に行き、仕事に行き、仕事に行き、仕事に行き、そして、仕事に行った。週末になった。
 週末になっても五十嵐はやって来なかった。
 昼頃にのそのそと起き出し、歯を磨く。こんなに遅くまで眠ったのは久しぶりだった。身体のあちこちがバキバキに痛む。大阪での疲れがまだ残っている……どころか、ますます体調は酷くなるばかりだ。痛みは消えないのかもしれないとすら思った。
 11月が終わろうとしていた。
 大阪で買った『黒い時計の旅』は結局まだ一度も開いていない。
 土曜日は家で『さよなら!絶望先生』のアニメを観た。
 日曜日は朝早くに起きた。
 昼過ぎになっても、やはり五十嵐はやってこなかった。
 わん!
 代わりに、誰もいないはずの隣の部屋から犬の鳴き声が聞こえてくる。ゴールデンウィークから今に至るまで、犬は元気に吠え続けていた。
 もうアパートの住人たちも諦めてしまったのか、誰も文句を云おうとはしなかった。唯一、ずっと怒り続けていたパンダも、もういない。
 わん!
 こら!
 それに追随するように、女の声。
 頭の奥がキリキリと痛む。身体中が悲鳴を上げ続けているのだ、と思った。
 どこか遠くに行きたくなって、それは前回もうやったことを思い出す。僕は僕の意思で東京に帰ってきたというのに、この体たらく。
 意思は弱く、
 明日からまた、ただ、働く。
 悲しくなってスーパーに行った。
 スーパーで鴨肉と、ネギと、キャベツとビールを買って帰った。
 鴨肉と、ネギと、キャベツと、家にあるほうれん草を鍋にしてビールで流し込むように食べた。
「しょっぱ……」
 醤油を入れすぎた鍋はとても食べられたものじゃなかった。
 
     ✳︎

 さて、
 新しい一週間が始まる。
 
 月曜日、滅入る。
 仕事に行って、帰ってビールを飲んで寝た。
 
 火曜日、滅入る。
 仕事に行って、帰ってハイボールを飲んで寝た。

 水曜日、滅入る。
 仕事に行って、帰ってハイボールを飲んで寝た。

 木曜日、滅入る。
 仕事に行って、帰ってワインを飲んで寝た。

 金曜日、滅入る。
 仕事に行って、帰ってハイボールを飲んで寝た。

 土曜日の夜にマッサージ店に行き「結構凝ってますね、四十代の身体みたい笑」と笑われ、僕はふと、東京に帰ってきてから会社以外でまだ誰とも会話していないことに気づいた。
「やばいですか?」
「運動してます?」
「してないですが」
「やばいかもです」
「まじっすか……」
 『砂漠』に出てくる鳥井というキャラクターの「運動をしているやつは馬鹿」という言葉を指針に、これまでありとあらゆるスポーツを見下してきた僕にとって(僕のこれはスケボーすら認めない徹底ぶりだ)マッサージ師のその言葉はかなり衝撃だった。
「そういえば鳥井も結局ボクシング始めてた……」
「はい?」
「あ、小説って読みますか?」
「えっと、石田衣良とかなら」
「……」
 マッサージを受け、完全体ではないものの、とりあえず息を深く吸い込めるようになった僕は、つけ麺を食べて帰った。
 日曜日は泥のように寝た。夕方にスーパーに行って、豚肉とキャベツとしいたけを買って帰った。鍋にして食べた。前回の反省を踏まえうす味にした鍋はなんだか食べた気がしなかった。
 
 そして、
 また、新しい一週間が始まる。

 月曜日、滅入る。
 仕事に行って、帰ってビールを飲んで寝た。

 火曜日、滅入る。
 仕事に行って、帰ってお茶を飲んで寝た。

 水曜日、滅入る。
 仕事に行って、帰ってハイボールを飲んで寝た。

 木曜日、滅入る。
 仕事に行って、帰ってビールを飲んで寝た。

 金曜日、滅入る。
 仕事に行って、帰ってハイボールを飲んで寝た。

 僕はいつになったらいちごちゃんに会えるのだろう?
 もう、すべての準備は整っているはずだった。僕はゴールデンウィークに戻り、僕自身の手足を回収し、いちごちゃんが大阪へ向かう理由としてそれを然るべき場所に配置してきたのだ。これで、いちごちゃんは僕の影を追って大阪に行ったことになり、そこで何かを得て帰還するはずなのだった。東京へ帰還するはずなのだ。南阿佐ヶ谷の書店で尊敬する作家が本を売り、宇宙でchillする東京へ。僕が住み、住んできて、今も暮らす街へ。
 アイドルタイムいとぶろの空白を、僕はそういうふうにして埋めたのだ。
 僕が主役になるようにと、切実に。
 それなのに、肝心の僕はと云えば、大阪から帰ってきてからというもの、誰とも会話せず、ただ仕事に行って、酒を飲んで寝てばかりだ。
 結局、
 結局、こうなるのか?
 結局、今回もいつものアレなのか?
 その場ではなんだか救われたような、祈りが通じたような、何かが劇的に変化するような、何者かになれたような、そんな、一時的な全能感だけを与えられて、それが過ぎればまたいつもの生活が延長するだけ……。去年のゴールデンウィークや沖縄で散々体験してきた、アレでしかないのか?ハッピーエンドなんてなく、それどころかエンドすらなく、ただ、だらだらと軽薄な意思で前にも後ろにも進まない日々が続くだけなのか?
 わん!
 こら!
 それに追随するように、女の声。
 誰もいないはずの部屋から聞こえてくる一連の騒音にすら、僕はなすすべもない。
 土曜日は『まちカドまぞく』のアニメを観返しているうちに終わった。
 日曜日になると同時に、メッセージが飛んできた。

     ✳︎

「いや、すいません。まだ片付いていなくて」
 恐縮するわりには漫画家の部屋はすっきりとしていた。元々あまり物は持たない主義なのかもしれない。前に行った漫画家の家にも、そういえば必要最小限の家具しか見当たらなかった。
 広い一軒家をがらんとさせているのは寒々しいが、アパートの一室であればどこか洗練されている感すらある。日当たりも良く、12月だというのに部屋のなかは温かな陽気に満ち満ちていた。
 彼の新居は落合と東中野の、ちょうど中間あたりのアパートの2階にあった。
「いい部屋ですね」
 窓の外の風景を眺めながら、本心でそう云う。
「トイレと風呂は一緒ですけどね」
「うへぇ」
 僕ならその条件にはとても耐えられないが、漫画家はといえば嬉しそうに部屋のなかをしげしげと見回していた。
「あ、これ、引っ越し祝いです」
 僕は忘れないうちに、紙袋に包んだそれを渡す。
「これは……なんです?」
「音が鳴るパンダです」
「……は、はぁ」
 困惑した様子で、漫画家はパンダが印刷された緑色の球体を目の前にかざした。
「ふってみてください」
 漫画家がおそるおそるパンダを縦にふる。ちりんちりんと、軽い音が部屋に響いた。
「おお……?」
「実は、この前大阪に行ってきて。そこで買った物です」
「あ、あの串カツの写真ってそういうことだったんですね。僕はてっきりイタズラか何かかと……。なるほど、良い音です。ありがとうございます」
 と云って、漫画家は音が鳴るパンダをテーブルの隅にことんと置いた。
「まあ、座ってください。お茶を出します」
「すいません」
 云われたとおり、手前の席に腰をおろした。ひどく硬い感触に尻が冷える。
「漫画もこの机で描いてるんですか?」
「いや、奥にもう一部屋あって、そこで描いてます」
「へぇ」
 僕は漫画家の仕事部屋を一度も見たことがなかった。
「見ても?」
 と訊くと、
「いや、ちょっと、ごめんなさい」
 漫画家の気まずそうな声が返ってきた。
「なるほど」
 僕はとりあえず納得したふりだけする。
 別にそこまでして見てみたいわけでもない。
 漫画家がお茶を運んできて、それに口をつける。お茶の味がした。馬鹿みたいだな、と思った。
「あの千駄木の家は?」
「売りました。あまり高くはありませんでしたが」
「そうですか」
 あの、暗くて寒い平屋を思い出す。谷中霊園のすぐそばの、人工的なまでに薄暗いあの家を思い出す。まるで死んだようだったあの家に比べれば、今のこの部屋は血液の循環する、正しく明るい場所だと思った。
「漫画はどうですか?」
「いやぁ、お恥ずかしながら、まだ。この前の連載会議も結局落ちちゃいました」
「それは……」
 なんと云うべきなのか僕は戸惑い、戸惑っているうちに僕の言葉を待つ時間が終わった。かわりに漫画家が、
「まだネタはあるんです。ここでの生活が落ち着いたら、ネームに起こそうかなと思ってます」
 と云った。
 なるほど、と僕は頷く。
「そちらはどうですか?」
「はい?」
「ブログ」
「ああ」
「あれから、まだ一度も更新されてないみたいですが、」
「そうですね」
 あれから、と云うのは、いつのことを指しているのだろう?大阪から帰ってきてときか?最後に漫画家と飲んだ夜か?それとも、と考えて、そんなこと明らかにする必要もないことに気づく。
 それがいつであろうと、答えは同じなのだから。
「書かないんですか?」
 書けないんです、と云いかけて、やめる。書ける人間の前で、書けない、なんてのはただの言い訳にしかならない。書かない、ならともかく、書けない、なんてのは全く、まーったく何の自慢にも、理由にも、ステータスにもなりはしない。書けないということを書くしか能がないうんこ製造人間だと思われるのだけは嫌だった。
 結局、書ける人間が凄くて、書けない人間には何にも価値がないのだ。書いた人間だけが回答権を手にして、書かなかった人間はいつまでも黙りこくっているしか、従い続けるしかない。虹を吐けないパンダと一緒だ。昔、凄かったパンダ。もういなくなってしまったパンダ。終わってしまったパンダ。
「がっかりですか?」
「はい?」
 気分がくさくさしてきたからか、思わず意地悪な質問をしてしまった。云って、僕はすぐに後悔する。自分で自分が恥ずかしい。しかし、一度言葉を紡いでしまった以上、引き返すわけにもいかなかった。
「ブログも書かない、ほかに何かしているわけでもない、無気力に仕事して、酒飲んで寝てるだけの僕です。酒だって、破滅的なほどは飲まない。翌日に響かない程度です。嫌になりますよ。嫌になりませんか?そんな、低レベルな存在が、そんな低次元な存在が友人面して新居に押しかけてきて、音が鳴るパンダなんて持ってきて」
 云ってしまう。
 しかし漫画家は、僕の言葉を聞いてもポカンとした顔で、
「別に、ブログがあなたと友人でいる理由じゃないですよ」
 と首をひねった。

 それから漫画家と夕飯にラーメンを食べて、そのまま帰った。
 
     ✳︎

 電車のなかでなんとなく窓を見つめるが、もうすっかり暗くなった世界で、電車の窓は情けない僕の姿しか映さない。

     ✳︎

「遅かったな」
 家に帰ると、パンダがいた。
 それも、巨大なパンダがいた。
「……は?」
「え、なにその幽霊でも見たみたいな顔。だっさ」
 プププ、と勘に触る笑い声が玄関まで届く。
「なんで……?」
「なんでって?」
「なんでいるの?」
「なんでって、ここが俺の家だからだが?」
 当然のようにベッドにふんぞりかえるパンダが、ていうかまず靴脱げ、玄関に突っ立ってられると落ちつかねぇから、と喚く。
 云われるがまま、僕は靴を脱いた。ほのかに湿った靴下を洗濯カゴに放り込み、ベッドに腰掛ける。
「座るなよ。俺の寝転ぶスペースが狭くなるだろ」というパンダのクレームは無視。そんなことに構っていられる心境じゃなかった。
「死んだのかと思った」
「誰が?」
「おまえ」
「なんで?」
「急にいなくなるから」
「んなアホな。なんだ、お前は仕留め損ねたゴキブリが急に姿消したら死んだと思うのかよ」
「パンダはゴキブリじゃないだろ」
「当たり前だろ。俺をゴキブリなんかと一緒にすんな。殴るぞ」
 無茶苦茶だ、と思った。
 しかし、この理不尽が、今は懐かしかった。
「じゃあ、どこ行ってたのさ、しかも急にまたでかくなってるし」
 僕の頭を何度も小突く目障りな足をはたき落とす。すると、今度は鼻くそを背中に塗り込まれた。この理不尽が懐かしくはあったが、それはそれとして殺してやりたくなった。
「お前さ、ゴールデンウィークのあとくらいかな、鳥取に行ったじゃん」
「は?僕が?行ってないよ」
「いや、行ったじゃん、7年くらい前の鳥取だけど」
 云われて、そういえば、と思い出す。
 そんな話もあったな、と。
「でも、それがなんだよ」
「だから俺も行ってきたんだ、泳いで。誰かさんのせいで能力のほとんどを使い切っちゃってたからさ」
 おかげで身体も小さくなっちまったし、とパンダがぐちぐちと漏らす。
「意味がわからないんだけど」
 着ていたパーカーを脱いで、塗りたくられた鼻くそを頑張ってティッシュで拭く。効果はなさそうだった。
「ほら、お前、あそこでも手足を切られてたじゃん。ウケるよな。そんなんばっかだよな、お前って」
「だから?」
 若干イラつきながら聞き返す。鼻くそを綺麗に拭き取ることは諦め、パーカーを洗濯カゴに放り投げた。パーカーは洗濯カゴまで届かず、無様にも埃っぽい床の上に着地した。
「食ったんよ」
 不味かったけど、と、パンダが付け加える。
「……は?」
 パーカーを拾うため立ち上がりかけた身体が硬直する。
 なにそれ。
「え、僕、食べられたの?」
「食ったつっても、手足だけな」
 と、パンダは詫びれる様子もなく鼻をほじりながら答えた。
「じゃあ、なに、僕はどうなったんだよ」
「しらねぇよ。死んだんじゃね?」
 なんて、
「無茶苦茶だ……」
「うるせぇな、食わせてやったぶんくらいは食わせろよ」
 パンダのキックが僕の脳天を揺さぶった。痛い。
「それにお前自身は生きてるんだからいいじゃん」
「え、っと、待って。なに、これ、どういう世界観なんだっけ?」
「あれでしょ、世界線がどーたらみたいな」
「え、そうなの?」
「しらねぇよ」
 ていうか、と、パンダが起き上がり、
「あったかもしれない可能性なんて忘れろ。今、ここにいるお前だけが本当だよ」
 僕の頭を優しく撫でた。
 なんだかうまく誤魔化された気もするが、しかし、これ以上パンダに云い返せるだけの何かを僕が持っているわけもなく、実際、僕自身はここでこうして今も生きているわけで、
 だから、
 不本意ではあるが、僕はそうだな、と頷いて、それからパンダの腕をはたき落とした。蚤でもうつされたのか、頭皮がかゆい。
 頭を掻きながらパンダの腕を執拗に蹴っていると、いつものあれが聞こえてきた。
 わん!
 こら!
 それに追随するように、女の声。
 パンダの身体がぴくん、と跳ねる。
「あいつら……」
 パンダの声が震える。
「頼むから、壁を殴るのだけはやめてくれ」
 無駄と知りつつ、僕は形だけでも懇願する。しかし、案外あっさりと「んなことはしない」と素直な返事がかえってきた。
「んなことじゃ殺せないからな」
 え?と僕が聞き返すよりもはやく、パンダが外に飛び出す。
 間髪入れず、すぐ近くで鉄筋コンクリートの割れる音が鳴り響く。それから、
 わん!
 と、犬の鳴き声がして、
 鈍い音が続き、
 静寂。
 おそるおそる僕も外に出ると、隣の部屋から身体中を真っ赤に染めたパンダが姿をあらわした。隣の部屋のドアは無残にもひっぺがされ、ほとんどその存在意義を失っていた。
「えっと……」
 こういうときってなんて云えばいいんだっけ?ご愁傷様?いやそれじゃパクリになっちゃうか、とよくわからないことを考えていると、
「死んだよ、全員」
 虹を吐けないパンダが、得意げに力こぶを作った。
「いや、だって、隣の部屋には誰も住んでないって……」
 前に一度、管理会社に電話したときのことを思い出す。

 ーーえー、すいません、確認したのですが、現在いとう様のお隣には誰も住んでいない状態でして……。

「関係ねぇ。存在してようが、存在してなかろうが、殺すんだよ、俺は」
 パンダが笑う。
 なぜなら、俺は凄いから、と。
 虹を吐けなくても、俺は凄いから、と。
 不敵に笑う。
 つられて、僕もちょっと笑ってしまった。

いとうくんのお洋服代になります。