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アイドルタイムいとぶろ③

 僕がまだ大学生のころ、僕はあくびばかりしていた。とにかく眠たかった……かったるかった。何をしたってわけでもないのに、いつも疲れていた。いや、それは今もだ。身体が重たくて、楽しい気分になることなんか一年に数回あるか、みたいな感じがずっと続いている。
 大学生の少しのあいだ、僕は僕の住むアパートから二番目に近いスーパーでバイトをしていた。そのスーパーはパチンコ屋の隣にあった。店自体はそこそこ広くて、大勢の人の生活を支えていた。だけど僕は本当はスーパーなんかで働きたくなかった。本当は古本屋かなにかで働いてみたかったが、家の近所には古本屋はおろか、まともな本屋すらなかった。国道沿いのモールはいつもガラガラだった。そこの本屋で売られているほとんどは本ではなく、チャチな文房具だった。僕はペンにもノートにも変なスタンプにもまったく興味がなかった。引っ越したかったが、環境を変えるほどの体力もなかった。
 スーパーで僕は飲料コーナーの担当だった。毎日、夜の6時から10時まで棚にペットボトルを並べていた。ペットボトルを並べるときは必ず、陳列されているものを一度すべて出して、奥に新しいペットボトルが並ぶようにしないといけなかった。ペットボトルは重たく、軍手をしないと手の皮がすすけて大変だった。「夏は地獄だぜ」と誰かが云っていた。過酷だ、と思った。過酷な仕事だ、と思った。しかし、傍目には僕はのろのろとペットボトルを棚に並べているだけで全然過酷なようには見えなくて、それが僕は悲しかった。
 飲料コーナーを担当しているのは僕以外に、二児のパパと頭のおかしいおじさんと美しい青年がいた。
 二児のパパはいつもフットサルに行くような格好をして、大きな車に乗って出勤してきていた。あまり声が大きくなくて、会話は必要最小限、業務に必要なことをぼそぼそとやり取りするだけだった。仕事が丁寧で、基本的には誰からも信用されていた。早くあがる日は、惣菜コーナーで山ほど揚げ物を買って帰っていた。頭のおかしいおじさんは店内だろうと平気でおならをする人で、僕はそれがとても怖かった。惣菜コーナー担当の若い男の子たちが楽しそうに喋っていると、突然キレて大声を張り上げるような人だった。若い男の子たちが楽しそうに喋るとき、話題は必ず自分の悪口だと勘違いしているようだった。だから僕はそのおじさんの前では決して笑わないようにしていた。すると、俺といるとつまらんってか、とキレられた。頭のおかしいおじさんがおならをしたときは、何も聞こえなかったフリをした。
 美しい青年は僕の一ヶ月後に入ってきて、だから僕のことを「先輩」と呼んだ。僕はその青年の教育係に任命されたけど、何せ、ペットボトルを棚に並べるだけの仕事なのですぐに教えることはなくなって、雑談ばかりしていた。「大学生だっけ?」「誰がですか?」「きみ」「違いますけど」「何やってんの?」「バイト」「だけ?」「だけです」「今のところは?」「今のところは」「夢とか?」「先輩は?」「うん?」「大学ですか」「あー、ね」「大学って楽しいんですか?」「全然」「悲惨ですね」「僕たちでさ、ロックバンドとかやろうよ」「悲惨ですね」「ロック好き?」「聴いたこともないですね」「何聴くの?」「くだんないですよね、音楽って」「たしかに」「くだんないですよね、夢とかって」「たしかに」青年の云うことはいつも正しかった。
 青年の名前はいちごちゃんと云った。変な名前の、ひたすらに美しい青年。

 当時、僕の住む部屋にはロフトはなくて、もちろんパンダもいなかった。正確には、気配だけは常に感じていた。だけどそれは気配だけで、実際に触ったり、見たり、話したりできるような類のものではなかった。実際に触ったり、見たり、話したりできないのはいないのと同じだ。
 一人きりの部屋は居心地がよかった。
 毎日、無意味にせかせかしながら、撮りためたアニメを観ていた。何を観てもそれなりに面白かった。どのアニメにもなにかしら学ぶべきことがあり、感じ入るものがあった。11月で、来年はとうとう四回生だった。大学生になって、この部屋に引っ越してきてはじめての夜、僕は、とうとう行き着くところまで来てしまったのだと感じて泣いた。ここから先はもうないのだ、とわかってしまった。未来はない。ここで輝くことができなければ、僕にはもう一生、解答権は与えられないのだ、と思った。今でもそう思っている。だから、すぐにでもキラキラと輝く必要があった。誰もが羨むような価値を稼がなくてはいけなかった。価値を稼がなければ、僕のこれまでの人生はすべて嘘になってしまう、と思った。僕は追い込まれていた。怖くて泣いた。今はもう泣かない。
 ペットボトルを台車に乗せる、台車を転がす、棚のペットボトルをすべて取り出す、新しいペットボトルを奥に並べる、古いペットボトルを戻す。それだけのことなのに、僕はいつも、自分がきちんと仕事できているのか不安で仕方がなかった。何かを決定的に間違えているような感じがして、気が気じゃなかった。今すぐにでも店長が飛んできて、なんてことをしてくれたんだ、と激昂してくるような気がした。怯えていた。店長は何かスポーツをやっているのかがっしりした体格で、真っ白な歯を見せて、いつも笑っていた。僕は、店長は僕のことをきっと嫌っているだろうと、思っていた。いつも不安だった。なんでこんなに不安な気持ちになるんだろう?自信がなかった。きっと、なに一つ成功体験がないからだ、と思った。キラキラと輝く価値を稼いでいないからだ、と思った。
「あいつ、きっとホモだよ」
「そうなんですか」
「って、惣菜コーナーのやつが云ってた」
「へぇ」
 休憩室で、いちごちゃんとコーヒーを飲んでいた。いちごちゃんはまだ休憩時間じゃなかったが、店長も帰ったしやることもないからと云ってサボっていた。惣菜コーナーの人に影でホモだと云われていた頭のおかしいおじさんが、一人でペットボトルを運んでいた。おじさんがおならをした。おならは僕の耳には届いてこなかった。僕は休憩室にいて、いちごちゃんとコーヒーを飲んでいた。砂糖がたっぷり入った、ただひらすらに甘いだけの缶コーヒーだった。糖分にやられて頭がくらくらした。
 例えば、
 例えば、僕が並べるペットボトルのすべてに毒を入れることは可能だろうか?と考えた。可能だ。僕なら。大虐殺が起こる。人がたくさん死に、このスーパーは潰れる。店長は路頭に迷い、暇を持て余した中学生に殺される。二児のパパの子供たちは栄養失調で死ぬ。頭のおかしいおじさんは無実の罪で死刑になる。すべての人類を破壊するのだ。そして、それらは再生できない。
 それでも、いちごちゃんはきっと死なないだろう。
 僕はきっと死んでしまうだろう。
 悲しくなった。
「先輩は、」いちごちゃんが口を開いた。
「うん」
「一人暮らしですか?」
「そうだよ」
「いいですね」
「いいよ」
「僕も一人暮らししたいですね」
「どこ住むの?」
「東京」
「いいね」
 心の奥底からそう思った。
 休憩時間が終わったので立ち上がった。いちごちゃんは座ったままだった。仕事しろ、と云うと、そのうち、と返ってきた。

 サボり癖こそあったが、しかし、いちごちゃんの仕事ぶりは結構な評判だった。そのうち他の仕事も任されるようになった。飲料コーナー以外の売り場を任され、商品の仕入れを任された。僕は相変わらずペットボトルを運ぶだけの毎日だった。ペットボトルを運ぶだけの毎日はとにかく苦痛だったが、何も考えなくていいから楽でもあった。たまに、何も考えずペットボトルを運ぶだけで僕の人生が終わってしまうんじゃないかって気がして、悲しくなった。僕はすぐに悲しくなってしまう。ずっと悲しんでいる気すらする。それはとても滑稽なことだと思った。
「あれ、先輩、今日は歩きですか」
 雪でも降るんじゃないかってくらい寒い日だった。残って帳簿をつける店長に挨拶をして、僕といちごちゃんは揃って外に出た。
「自転車、盗まれた」と云うと、いちごちゃんは「悲惨ですね」と笑った。
 それが当時のいちごちゃんの口癖だった。
「先輩は無用心なんですよ。そんなことじゃ、いずれ酷い目にあいますよ」
「忠告ありがとう」
「後ろ、乗ります?」
 自分のママチャリにまたがったいちごちゃんが訊いた。ママチャリに乗るいちごちゃんは出来の悪い嘘みたいだなといつも思っていた。
「いや、いいや」
「そうですか、では」
 いちごちゃんが颯爽と走り去っていって、僕はとぼとぼと歩き出した。コンビニで冷凍のもつ鍋を買って帰った。家のなかはすっかり寒くなっていた。凍えながらシャワーだけ浴びた。もつ鍋を温めていると、視線を感じた。振り返った。誰もいなかった。もつ鍋がぐつぐつと煮えた。食べた。美味しかった。テレビをつけた。まだ早い時間なのにアニメをやっていた。観た。面白かった。アニメが終わった。チャンネルを操作し、録画されたアニメの最新話を再生した。観た。面白かった。アニメが終わった。別のアニメを観た。面白かった。アニメが終わった。観るアニメがなくなったので、僕は寝た。
 次の日はなぜか晴れやかな気分だった。未来はある、と思った。これから僕はキラキラと輝くのだ、と感じた。午後から大学に行って、誰とも話さず講義を受けた。
 一度家に帰り、服を着替えてスーパーに行った。今日は僕といちごちゃんと、あとは頭のおかしいおじさんがシフトに入っていた。乾燥した手足を引きずりロッカー室に入ろうとすると、ドアに鍵がかかっていた。何度かドアをガチャガチャ揺すっていると、そのうち頭のおかしいおじさんが顔を覗かせ出てきた。
「なんや、早いな」おじさんはなぜか妙に息を荒げていた。
「はぁ」
「さっき、店長が呼んどったで」
「まじすか。あとで行きます」
「急ぎやって。今行けや」
「荷物置いてから行きますよ」
「あかんて、店長、怒るで」
「いや、でも、」
「いいから行けや!」
 おじさんが大きな声を張り上げるので、気圧されるように僕は店長のもとへ向かった。
 立ち去り際にチラッと、ロッカー室の奥でいちごちゃんが座り込んでいるのが見えた。
 その日はそれから一度もいちごちゃんの姿を見なかった。

 次の日、僕はバイトに行かなかった。もう二度と行かないだろうな、と思った。店長から何度も電話がかかってきたけど、全部無視して、アニメを観た。

 一週間ほどして、いちごちゃんがアパートまでやってきた。
「バイト、もう来ないんですか」
「かったるくて」今、僕は本当のことを云っているな、と僕は思った。
「ふぅん」
「ていうか、なんで僕の家、知ってるわけ」
「私物、持っていってやれって、店長が」レジ袋を手渡される。
「そりゃまた、悪いね」
 レジ袋のなかには、メモ帳やボールペンや軍手が入っていた。いらないものばかりだった。あとで捨てよう、と思った。
「店長はなんか云ってた?」
「何も。まあ、よくあることですから」
「そっか」
 惜しまれるほどの価値など、僕にはないのだ。それが今の僕のステータスなのだ。いてもいなくても、どっちでもいい存在、うんこ製造人間なのだ、僕は。
「いちごちゃんは、」
「はい?」
「バイト、続けんの?」
「うーん」
 いちごちゃんはひとしきり悩むそぶりを見せてから、先輩が辞めるなら僕も辞めようかな、と云って笑った。

 それから、そのスーパーでは連続殺人事件が起きて犯人も被害者も全員内部の人間でそれが原因で経営が立ち行かなくなってあっさりと潰れる。
 本当に大虐殺が起こったのだ。
 そして、そこで犯人を指摘したのがいちごちゃんだった。いちごちゃんが名探偵となった、はじめての事件だった。
 僕はそれを後でいちごちゃんの口から聞いた。
 大事な物語はいつだって僕がいないところで起こり、勝手に解決するのだ。僕は永遠にそこには交われない。僕は主人公ではありえないのだ。

 *

 九時ごろに目覚めたものの、起き上がる気にならずベッドのうえでうだうだやっているとインターフォンが鳴って、出ると五十嵐だった。
「よぉ、今起きましたって顔だな」
「そりゃ、今起きましたから」
「まあ、あげろよ」僕の返事を待たず、五十嵐はずかずかと部屋にあがりこむ。
 あれから、週末になるたびに五十嵐はうちへやってきた。うちへやってきて、何時間もどうでもいい話をしたり、嫌がる僕を無理やり映画館や知らない街へ連れていったりした。この前はなぜか飯能まで連れていかれ、雨だというのに天覧山を登らされた。
 正直かなり迷惑だし、端的に云って死んでほしいとすら思っている。
「今日はなんの用ですか」
「別に。ただ、遊びに来ただけだが」
「ああ、そう」
 五十嵐はいつものように椅子に腰掛け、持参のペットボトルを開けた。五十嵐が椅子に座るたび、そのまま壊れてしまうんじゃないかとハラハラする。今のところ、その予兆はないが……。
「そういえば、今日来るときあれ見たぞ」
「あれ?」
「仮装。ハロウィンのやつ」
「へぇ、こんな朝早くから」
「あいつら、隙あればすぐ発情しやがるからな」
 眉をしかめながら、五十嵐が持参のペットボトルに口をつける。いたごちゃんならきっとそんなことは云わないだろう。いたごちゃんならば「暗くて寒いところで正しいことだけ云って悦に入ってるやつらを一人残らず引き摺りだして渋谷のど真ん中に放り投げてやりましょうよ。大虐殺です。マザファカ」と云って笑ってくれるだろう。マザファカまでは云わないかもしれない。
「あんたはあれか、やっぱりパンダのコスプレでもするのか?」
「しませんよ、気持ち悪い」
 眠気まなこを擦りながら、冷蔵庫からオレンジジュースを取り出す。そういえばパンダはどこだろう。まだ寝てるのか。こんなに朝早くから五十嵐が来ることはこれまでなかったので、この状況でパンダが起きてきたらどうしよう、と思った。
「ブログはどうだ?書けてるか?」
「あなたに急かされる謂れはない」
「あるよ。俺はあんたのブログの読者だからな」
 会うたび、五十嵐は急かすようにブログのことを聞いてくるのでうざったくて仕方がなかった。そのくせ、ここに来たそもそもの目的であるはずの、いちごちゃんのことにはあまり触れてこないのが不気味だった。うざいし不気味な存在だった。五十嵐が身体を揺するたびに椅子がギシギシと軋んだ。
「どこまでが本当のことで、どこからが嘘なのか」急に、五十嵐が声を低くして呟く。
「は?」
「なぁ、あのカラーボックス、何が入ってるんだ?」五十嵐が指差すのはパンダが寝床にしているカラーボックスだ。
「……なにって、下着とかですよ」
 動揺を気取られないように答える。
「それだけ?」
「それだけです」
 五十嵐は、そうか、と頷いて、それから、じゃあ中のぞいてもいいか?と訊いてきた。
「嫌ですよ。話聞いてました?下着あるんですって」
「そんなの気にするタチかよ、乙女でもねぇのに」
 乙女じゃなくても嫌だろ、とは思ったが、それを云う前に五十嵐がカラーボックスに手を伸ばすので慌てて止めに入った。
「やめてくださいよ」
 カラーボックスを背に、五十嵐の目を真っ直ぐ睨み返す。
「必死だな」五十嵐が余裕そうに唇を吊り上げた。
「そりゃ、」
「……それ、尻尾か?」
 え、と振り返るのと同時に、強い衝撃が僕の脳髄を揺さぶった。

 ーー先輩は無用心なんですよ。そんなことじゃ、いずれ酷い目にあいますよ。

 いつだったか聞いたはずのいちごちゃんの言葉を思い出す。いちごちゃんの言葉はいつだって必ず正しい。この世界で唯一、いちごちゃんだけが間違えない。
 僕はもっといちごちゃんの言葉を聞いておくべきだった。胸に留めておくべきだったのだ。
 しかし後悔よりも先に、僕の意識は途絶えた。

いとうくんのお洋服代になります。