犬が鳴いた
「おい、今日もだぞ」
ロフトの上で、パンダがいつもの如く吠えた。
だが、珍しく今日の怒りの矛先は僕ではない。僕はそのことに少なからずホッとしている。パンダは些細なことですぐ怒る。埃が溜まっている、味噌が切れている、部屋が暑い、iPadエアーの使い方がわからない、部屋が寒い、トイレが臭い……。その度、怒りは僕にぶつけられ、僕は嫌々、床を掃除したり、味噌を買いにサミットに行ったり、冷房をつけたり、iPadエアーの使い方を調べたり、暖房をつけたり、トイレを掃除したりさせられるのだ。
もう怒られるのは疲れた。
だからパンダが珍しく僕ではなく、隣の部屋の住人に対して怒ったとき、僕は不覚にもホッとしてしまった。今、怒られているのは僕じゃない。だから、理不尽な怒りを向けられ、魂を疲弊させる必要はないのだ、と。
隣の部屋から、わん!と甲高い犬の鳴き声と、それを叱りつける男の低い怒鳴り声が聞こえてくる。それから、それに追随するように女の声も。
「おい、聞いたか。また吠えたぞ。また怒鳴ったぞ。聞いたよな?」
「聞こえたけど……」
「許せない……。ここがペット不可のアパートだって知らねぇのか?」
パンダが自分の存在を都合よく無視した発言をするので呆れる。が、もちろん、そんなことは口にはしない。もっと面倒なことになるからだ。
「おい、ちょっと、壁叩け、思いっきり」
階下にいる僕に、パンダが怒鳴る。ふざけるな。なんでそんな、わざわざ戦争を挑むようなことをしなきゃいけないんだ、と思う。無駄な争いはネットのなかだけで充分……!
「ほら、いけ。やれ。かましてやれ」
と、パンダの自慢の(?)右ストレートが空を切る。
仕方ないので、僕もそれを真似して、軽く右拳で壁を叩いた。
ドン、と壁の向こうに伝わるか伝わないかギリギリの振動が、しかし、少なくとも僕の鼓膜には届く。僕はそれで良いことにする。殴ったよ、これで黙るだろ、とパンダに云うと、パンダも満足したように首を引っ込めた。しばらくして、ロフトの上から肉と肉がぶつかり、爆ぜる音が聞こえてくる。どうやら映画を観ているらしい。そんな血気盛んな映画を観るから怒りっぽくなるんだ、と思う。映画に罪はないが、しかし、それを観て、影響される人間には罪が生じる。だから僕たちは特別な緊張感と責任感を持って物語と対峙する必要があるのだが、パンダはそのあたりのことを深く理解できていないようだった。パンダは無自覚に物語を摂取し、その力を間違った方向へ発散させる。無自覚な人間は嫌いだった。死んでほしいとすら祈っていた。
パンダの、うおー、と興奮した叫び声が部屋中に響く。
その日の夜中はそれ以上、犬の鳴き声が聞こえてくることはなかった。
「おい、まただぞ」
次の日もまた犬の鳴き声が聞こえてきて、パンダが騒いだ。深夜の二時だった。僕はちょうどいい具合にお酒に酔って、気持ちよくWait Me God(feat.YDIZZY)を歌っていたところだった。パンダの、慌てた様子の声がリッキーのラップをかき消した。夜中の二時に教えるから待ってろよという気分だった。もちろん、口にはしないが。
わん!
こら!
それに追随するように、女の声。
大体いつもセットで聞こえてくるのはその三つだ。
今日も同じ鳴き声が何度か、まるではじめから決まっている台本のように繰り返された。
「おい、壁殴れ。いけ。やれ。刺せ!」
うるさいなぁ、と思いつつ、僕は黙って先日と同じように右拳で壁を叩いた。しかし、この前よりは強めに。確実に相手に届くであろう振動を。
そして、待つ。
……。
わん!
こら!
あ、やばい、と思ったときにはもう遅かった。すでにパンダはロフトの上から飛び降り、そのままの勢いで壁に両足を叩きつけていた。
あまりの衝撃にアパート全体が揺れる。本棚の本がいくつも床に落ちる。ジュンク堂でもらったマグカップが割れる。
……。
音は、しない。
無音。
しばらく待って、パンダは満足したようにロフトの上に戻っていった。
「やりすぎだ」
ようやく我に返って、ロフトの上に向かって怒鳴る。
「うるせぇ、勧善懲悪だよ。俺は正しいことをしたんだ」
パンダの怒鳴り声は僕のそれよりもずっと大きい。
いつから僕たちは正しさに取り憑かれてしまったのだろうか、と、たまに思う。間違っているものは矯正され、それでも治らなければ容赦なく排除される。世界はそのルールをあまりにも簡単に採用し、そして今やそれが人々の共通認識としてすっかり定着している。一人が正しさを叫べば、それは大きなうねりとなって広がっていくのだ。正しさを叫び徒党を組むことで世界を変えられる時代。当たり前のように毎日どこかで正しさが幅をきかせ、世界をより良い方向へ導いていける時代。
誰もが正しさの波には逆らうことができない。
公園のベンチで噴水を眺めていると、わいわいと楽しそうな声が聞こえてきた。見ると、隣のベンチで若い男と若い女がベビーカーに向かって嬌声をあげていた。
ベビーカーの中にいるのは、赤ちゃんではなく子犬だった。
子犬はベビーカーのなかで荒い息を吐きながら、従順そうに飼い主たちを眺めまわしている。男が手を差し出せば待っていたようにその上に自分の前脚を置き、女が頭を撫でると気持ちよさそうに目を細める。その様子に、男と女が幸せそうに目線を絡ませる。それを子犬は不思議そうに眺める。
わん!
鳴き声が響く。
それは入り口の向こうからやってきた別の犬の鳴き声だが、しかし、僕はその鳴き声がした瞬間、確かに男と女の表情が曇るのを見た。
子犬が荒い息を吐いて舌を出す。男はその口に小さな骨を咥えさせる。
一週間ほど何事もなく過ぎ、仕事から帰るとパンダが慌てた様子で僕の頭を叩いた。
「いっ、てぇ……」
「おい、こんなの来てたぞ」
パンダが僕の頭を叩いたそれは回覧板だった。地元でしょっちゅうポストに入っていたそれは、しかし、東京で一人暮らしをはじめてからすっかり見ることもなくなっていた。
「珍しいな、何書いてあんの?」
「それがよ、これが傑作なんだよ」
プププ、と笑いながら嬉しそうにパンダが手渡す回覧板には大きく『平穏な夜を取り戻しましょう!』と書いてあった。その下には、『✳︎署名募集中!✳︎ 当アパートはペット不可の物件です。ルール違反は周りの住人の迷惑になります。私たちの力で静かで平穏な夜を取り戻しましょう。』とある。もう一枚の紙には名簿があり、すでに何人かの名前が書き連ねられていた。
「どうも、流行ってるらしいんだよ。そこらじゅうのアパートやマンションでこういう署名活動が。で、ついに隣の部屋のあいつらもお縄を頂戴ってわけよ。プププ、ウケる笑笑」
おい、それ、署名したら隣の部屋飛ばして回しとけよ、あいつらにこんなん渡したら処分されるに決まってるからな、と言い残して、パンダはサッサとロフトの上に戻っていった。
僕は云われたとおり回覧板に署名して、それを一つ飛ばして次の部屋のポストに放り込んだ。それからシャワーを浴びて、茄子を焼いて納豆とパスタに絡めて食べた。使い終わった食器を洗って、洗濯物を畳み、iPadエアーで本を読みながらお酒を飲んでいると、久しぶりに隣の部屋から、
わん!
こら!
それに追随するように、女の声。
が聞こえてきた。
ロフトの上を見ると、パンダの楽しそうなプププププという笑い声がする。
それから一ヶ月後、犬の鳴き声は本当に一切まったくしなくなった。みんなで引越したのか、それとも犬だけどこか別の場所へやったのか、そこまではわからない。ただ、一つ云えることは、確かに平穏な夜は戻ってきたということだった。犬の鳴き声に神経を過敏にする必要がない日々。犬の鳴き声がするたびに作業の手を止める必要がない日々。好きな音楽を邪魔されない日々。そんな、正当な権利を正当に行使することができる日々。
そして何より、パンダの機嫌が良いので僕も理不尽な怒りに怯える必要がなく楽だった。
さて、
話はここでは終わらない。
三ヶ月ほど経って、仕事から家に帰るとパンダが久しぶりに不機嫌そうな様子で立っていた。
「なに?僕、疲れてるんだけど」
「おい、まただぞ」
「は?」
「あいつら、犬を手放したなんて嘘だったぞ。俺は確かに聞いたんだ。犬が鳴いた。証拠もある。犬は、まだ、隣にいるんだよ」
「そんな馬鹿な」
「馬鹿じゃねぇ。これを聞け」
パンダがiPadのボイスレコーダーを立ち上げ再生したファイルには、確かに犬の鳴き声のようなものが録られていた。そのあとの、こら!という声も、それに追随するような女の声も。
「……本当だ」
「だろ?嘘じゃねぇんだよ。あいつら、事が収まるのを待ってやがったんだ。許せねぇ。おい、こうなったら直接管理会社にチクれ」
パンダが何をやってるんだ、早くしろ、今すぐ電話しろと急かす。
「あー、あとでいいかな。疲れてるんだよ。まずシャワーを浴びたい」
「うるせぇ。早くやれ。隣のやつらにも聞こえるくらいでかい声で電話しろ」
んな無茶な、と思いつつ、しかしこれ以上逆らっていても時間がもったいないので、僕は渋々、連絡先に登録してある管理会社の番号に電話をかけた。
若い男が電話に出る。
軽く用件を伝えると、確認しますのでアパート名と部屋番号を教えてくださいと訊かれるので答えると、しばらくお待ちください、と云われ電話口の音声が穏やかな電子音楽に切り替わった。
「なんて?」
パンダが訊く。
「今、確認してるって」
「何をだよ」
「知らないよ」
『お待たせしました』
音声が電子音楽から先ほどの男の声に切り替わる。
『えー、すいません、確認したのですが、現在いとう様のお隣には誰も住んでいない状態でして……。えっと、どこか別の部屋と勘違いされている、ということはありませんでしょうか?』
電話口での男の声はどこか歯切れが悪そうで、
わん!
こら!
それに追随するように、女の声。
確かにそれらは隣の部屋から聞こえてくるのだった。
いとうくんのお洋服代になります。