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霊、書く

 25歳になったその日、僕は17歳の僕に出会った。17歳の僕は相変わらず孤独で、天才で、どこにも味方なんかいなくて、どこにも敵すらいなくて、一人戦争状態だった。自分vs世界。あの酩酊感の只中に、17歳の僕はいた。
 懐かしい、と思った。
 くらくらした。
 過去を振り返り、昔はよかったなぁ、なんて呟くのは老人の仕事だ。
 昔の杵柄を使い、自分の存在を誇示するのは終わった人間の仕事だ。
 僕は自分がもうすでに終わった人間であることを、はっきりと認識した。
 17歳の僕は過去の自分達と向き合い全員殺して食べて吐き出したゲロカスを原稿用紙に叩きつけることで小説を書いた。そうすることでしか僕は小説が書けなかった。17歳の僕は自分を殺す資格を持つたったひとりの僕だった。
 僕はここで死ぬべきなのだと、強く思った。ここで自分に殺されたいと願った。夢の裏は地獄と地獄と地獄。もう、僕は地獄を歩き続けることにすっかり疲れてしまったのだ。
 しかし、17歳の僕は「大丈夫大丈夫大丈夫。大丈夫だ……」と口ずさみながら、僕の四肢を切断するだけで僕の命まで刈り取ることはしない。
 四肢を失った僕は、気がつくと阿佐ヶ谷の自分の部屋のベッドで寝ていて、そこには右腕も、左腕も、もちろん、両足もすべて揃った五体満足の僕の身体があった。
 ゆっくりと起き上がると、枕元に2023年のメフィストが置かれていることに気づいた。紙の雑誌だった。メフィストは2016年以降、発行は電子版のみになったはずだった。そもそも、今は2020年のはずだった。
 目次を見ると、西尾維新がひとりで六本の連載を持っていた。あとは知らない作家の作品が四本。うち、一本の作品に目が止まった。正確には、その著者名がひっかかった。
 『いつまでぼくらは子供』いちごちゃん
 いちごちゃんの名前がメフィストに載っていた。
 あたまのなかに無数のクエスチョンマークが浮かぶ。
 意味がわからなかった。いちごちゃんは美少年名探偵で、僕が勝手に作った存在なのだ。僕が勝手に作った存在だから、本当にはここに存在しないはずの人間なのだ。もちろん、これまでのどこにも存在しないし、だから、これからのどこにも存在しようがないはずだった。アイドルタイムいとぶろの中でしか生きることができない儚い存在がいちごちゃんであるはずだった。
 しかし、現に、2023年にいちごちゃんの名前で小説が発表されている。いや、そもそも2023年のメフィスがここにあることがまずおかしい。なんで?過去に行ったと思ったら、今度は未来から贈り物が送られてきたのだ。のか?
 どこまでを本当のこととしてよいのか、わからなくなる。あたまがはっきりと動かない。何かをきめてしまうことがひどく億劫だった。
 足りない脳内で僕はいちごちゃんの名前で書かれた小説を読む。
 その小説は……面白かった。傑作ではない。新人臭く未熟な点も目立つ。読んだ人間を全員殺すような復讐小説でもなければ、世界を丸ごと変えてしまうような革命小説でもない。しかし、それでも、それだからこそ、いちごちゃんの小説は面白かった。まずなにより、いちごちゃんの小説にはそこでしか語れないことが語られていた。小説を成り立たせるために必要な切実さが確かにあった。届くべき場所に届くようにと、真剣な祈りが込められていた。そして、それは疑いようのない才能によって成されていた。
 いちごちゃんの小説を読み終えた僕は泣く。
 これをいちごちゃんが書いたのか?3年後に?本当には存在しないはずのいちごちゃんが?
 いちごちゃんに電話をかけてみるが、どこにも繋がらなかった。
 
 未来の雑誌メフィストがなぜ、僕のもとへやってきたのか、未だ理由は不明だが、必ず意味はあるはずだと思った。そこにいちごちゃんの小説が載っていることが何よりの証拠だった。いちごちゃんの小説はある意味では僕への手紙のようでもあった。僕はそう感じた。である以上、この雑誌は、届くべくして僕のもとへ届けられたのだ。そのはずなのだ。
 では、一体、何のために?
 と、考えて、過去に期待することなど現状(未来)の改変くらいだと僕は考えた。僕が17歳の僕にそれを求めたように。3年後の誰かが現実≒未来の改変を僕に求めているのだ。
 笑えない話だった。自分の行動によって未来の結果を変えるとか、そういうテンプレートを雑になぞるだけの物語だけは嫌だった。その種の物語を心底軽蔑してきた僕にとって、今、この状況は恥以外のなにものでもなかった。二十五年間も生きてきて、そんな陳腐なところに落ち着こうとしている自分が情けなかった。
 だから、僕は期待を裏切ることにした。
 僕は未来のメフィストに載っているいちごちゃんの小説を、寸分違わず書き写し、アイドルタイムいとぶろにアップロードした。
 未来の誰かが僕に何を期待しているのかは知らないが、僕は与えられたアイテムを、未来ではなく、今、ここにいる、この僕の現状を改変するために利用してやることにしたのだ。
 僕だっていい加減報われたい。
 これは天が与えてくれたものだと、自分に都合よく解釈してしまいたかった。
 不思議と罪の意識はなかった。罪悪感を感じるような繊細な人間は今すぐ生きるのをやめたほうがいいとすら思っていた。自分や誰かの言葉や行動に一々傷つき悩むくらいなら、そもそも生きているべきじゃないのだ。自殺して正解なのだ。
 それに、僕のなかには少しだけではあるが、微かな期待があった。
 いちごちゃんは僕の脳内に存在する美少年名探偵だ。
 だとすれば、このいちごちゃんの小説も、実は未来の僕が書いている可能性だってあり得るんじゃないか、と思った。
 才能という才能を、青春汁という青春汁を、過去という過去をすべて使い果たし、干からびきった僕ではあるが、しかし、ここから再生して、かつて愛した名探偵の名前を使い、小説を書き始める、なんてドラマがあったっていいんじゃないか?
 と。
 であれば、これはパクリではなく、才能の前借りだ。
 僕だって未来にそれくらいの希望を見出したっていいじゃないか、と思う。
 まあ、しかし、本当のところは全然わからない。未来のことなんて、もう全く、ぜーんぜん、知らないし、本来、知るすべもないのだ。
 だから、これはまず何より、復讐なのだと思うことにした。
 しかし、誰に対して?僕は誰に対して怒ればよいのだろう?
 アイドルタイムいとぶろはいつも通り、少しの人に読まれて、それで終わる。何も変わらない。
 
 次の週も、ご丁寧に次号のメフィストは届けられた。よく考えたらメフィストは週刊ではないので一週間隔で次号が送られてくるのはおかしいが、わからない、もしかしたらそこにも何か意味があるのかもしれなかった。
 次に送られてきたメフィストは、西尾維新の連載が一つ増え、代わりに四本あった連載枠の一つが終わっていた。いちごちゃんの小説はまだ載っていた。
 『でも僕たちはまだ子供』いちごちゃん
 僕はその内容も一言一句違わずコピーして、アイドルタイムいとぶろにアップロードした。相変わらず、いちごちゃんとは連絡が取れないままだった。こういうことはたまにあった。大概は、僕の精神状態の問題でうまくいちごちゃんを創造できないことが原因だった。きっと、今回もそれだろう、と僕は思った。
 最近の僕は妙に疲れている。二度失った手足を動かすのが億劫で、毎朝何度も布団のなかでぐずり、その度にパンダに叩き起こされる。パンダは容赦がないので、僕のベッドは僕の喀血で赤く染まっている。
 あれだけ活発に活動を繰り返していた脳髄も今はすっかり大人しく、だから、何を読んでも、何を観ても、何を聴いても、面白い、か、かっこいい、しか感想がなかった。熱心に小説の、創作の話をしていたあの日の僕はもういなかった。今となっては、もう、コンビニで有料袋を断るのすら面倒な、終わっただけの僕だった。もう何一つ喋りたくないという気分だった。もう何一つ書きたくないという気持ちだった。色々なことを考えていられた時代ですら、僕にとっては幸福な思い出となってしまった。
 でも、人生は続く。
 17歳の僕は僕を殺してくれなかった。自分と向き合い全員殺して食べて吐き出したゲロカスを原稿用紙に叩きつけることでしか小説は書けない。しかし、僕は殺されなかった。それは、実質的な失格宣言だ。
 僕には小説になるだけの価値すらないと、17歳の僕は判断したのだ。
 小説を失格した今の僕に、では、あと、一体どれだけの価値が残されているのだろう?
 アイドルタイムいとぶろはいつも通り、少しの人に読まれて、それで終わった。何も変わらない。

 その日は珍しくパンダと駅前のラーメン屋に行くことになった。社会は未だ油断ならない状況下ではあったが、しかし、家にこもってばかりいるのも不健康だ、とパンダが云ったのだ。それで、僕たちは駅前まで散歩がてら向かうことにしたのだ。僕にとっては久しぶりの外出というわけでもなかった。僕は最近は普通にいつもどおり外出していた。家にこもりきりなのはパンダだけだ。虹を吐けないパンダは社会が怖い。
 パンダはいつも道いっぱいに広がり、のっそのっそとマイペースに歩く。後ろに人がつかえようがお構いなしだった。
「人、多すぎるだろ。どいつもこいつもアホか」
「家にこもってばかりいるのも不健康だからね」
「俺以外の人間、全員コロナで死んでほしいな」
「最悪だ……」
 でも同感だった。
 ラーメン屋はあまり混雑していなかった。パンダにはカウンターの一番奥の席に座らせ、僕はその隣に腰を降ろした。
 僕は醤油ラーメンを、パンダは塩ラーメンを頼んだ。
「お前の醤油ラーメンのほうが美味そうだな……交換しようぜ」
 自分の塩ラーメンと見比べながら、パンダが云った。
「やだよ」
「ケチ、人間失格、カス、ゴミ、ウンコ」
 ポカポカと肩を殴られる。擬音は可愛いがきちんと爪を立ててくるので本気で痛かった。
 結局、無理やりラーメンを交換させられた。
「ひどすぎる……」
「醤油ラーメン、うめぇ……。塩頼むやつはアホ」
「ひどすぎるだろ……」
 塩ラーメンは普通のラーメンの味がした。
 ラーメンを食べ終えた僕たちは、せっかくだから少しだけコーヒーを飲んでいくことにした。
「しかし、あれだな。結構、店とか普通にやってんだな。どこも消毒液は必ず置いてあるけど。でも、喫茶店とか、長時間ひとが留まる店ってやっぱ危険じゃねぇ?」
 パンダが喫茶店の店内でそんなことを大声で喚くものだから、僕は無駄にひやひやしてしまう。
「まあ、でも、各々の裁量で、潰れてしまわない程度に最善を尽くしていくしかないんじゃないかな」
 と僕は一応フォローにまわるが、しかし、僕のその言葉のどこまでが本当の僕の考えなのだろう?昔からずっと、その時その場で自分の意見が変化することが不思議でならなかった。
「そういう、波風立てないだけの意見、まじで嫌いだわ」
 パンダが吐き捨てるように云った。
 同感だった。
 自分で自分が恥ずかしくなってくる。しかし、各々が自分にできる最善を尽くしていくしかないと僕が感じているのもまた事実だと、僕は思った。であれば、僕の今の言葉は全くの偽物というわけでもないはずだ。
 いちごちゃん、という言葉が不意に聞こえた気がした。
 慌ててあたりを見回す。急な僕の行動に、パンダが、なに、刺客にでも狙われてんの?と笑いながら茶化すが、無視。
 僕たちの座る座席の斜め右、同じく二人がけの座席。
 そこに、確かに見覚えのある美少年がいた。
 先生、砂糖の入れすぎは身体に毒だよ、と、その美少年が呟く。
 いいだろ、別に、これくらい、と語る男の後ろ姿が目に入る。少しだけ揺れている。笑っている?しかし声のトーンはあくまで平坦で、だから男が本当に笑っているのかどうかはその表情でしか確認する術がない。ここからではスーツ姿の男の背中しか見えなかった。
 美少年は嬉しそうに、そんなんじゃ先生、すぐ死んじゃうよ、とケタケタ笑った。
 先生、と呼ばれた男はどこまでも平坦なトーンで、いちごちゃんは、長生きしそうだな、と云った。
 いちごちゃん。
 やはり、そこにいる美少年はいちごちゃんだった。僕が何度も思い浮かべた、あの、いちごちゃん。同名、どころか容姿や雰囲気、声色までまったくすべて一緒だった。紛れのないいちごちゃんが、そこにいた。
「おい、どこ行くんだよ」
 パンダが慌てた調子で云う。気づけば僕は立ち上がり、いちごちゃんたちの座る席へ向かっていた。
「あ、あの……」
 声を振り絞る。
 スーツの男は、まるで興味がなさそうにメガネ越しに僕を見上げ、いちごちゃんは、
 いちごちゃんは困惑した表情で僕を見つめていた。
 いちごちゃんが云う。
「……誰?」
 誰だろう?
 
 夜が明けて、朝になった。
 枕元にはやはり、次号のメフィスが置かれてあった。目次を見る。西尾維新が抱える連載の数は変わらず、いちごちゃんの小説もきちんと載っていた。
 『俺はまだ子供がいい』いちごちゃん
 僕はそれを読む。感動した。やっぱり天才だと思った。未来の世界で、いちごちゃんの作品の評価はどうなっているんだろう?芥川賞直木賞まではいかないまでもそれなりの賞をとって、一般的には成功している部類の作家であればいいな、と思った。そうであるべきだと祈った。
 この小説は、あの、現実に存在したいちごちゃんが将来書くはずの小説だったのだろうか?僕は僕の脳内にいるいちごちゃんではなく、あの、僕とは全く何の関係もないいちごちゃんが成すはずだった小説を奪ったのだろうか?
 だとしても、今更、罪悪感はない。
 ただ、悲しかった。
 であるとするならば、未来のメフィストが僕のもとに届けられることに、本当は全く何の意味もないことになる気がした。たまたまそうなってしまっただけで、実は誰も僕にはじめから期待なんかしていなかったんじゃないか、と思った。
 誰にも期待されず、誰のことを裏切ることもなく、ただ、いちごちゃんから小説を奪い、僕はずっと一人できりきり舞いをしていただけなんじゃないか?、と、そのことが悲しかった。
 誰かに認めてもらっていたかった。
 誰かに期待されていたかった。
 誰かに気にかけていてもらいたかった。
 それでも僕は、届けられたいちごちゃんの小説をすべて丸々パクってアイドルタイムいとぶろにアップロードする。いつも通り、少しの人に読まれるだけで、それで終わりだ。何も変わらない。
 僕はこれまでパクってきたアイドルタイムいとぶろを読み返す。それは……確かに面白いが、しかし、どこか違和感があった。
 いちごちゃんの小説とは違い、僕の書く文章には何かが足りなかった。丸々、そのまま書き写しているはずなのに、僕がパクったいちごちゃんの文章はなぜかダメだった。
 なに一つ、伝わってくるものがない。
 なんでこんな風になってしまうのだろう?
 同じ文章なのに、それを書く人間が違うだけで、なんでこうも読後感が変わってしまうのだろう?
 言葉とは、小説とは、才能とは、一体なんなんだろう?
 小説の一体なにが、人の心を揺り動かすのだろう?言葉の連なりでしかないはずの小説が、言葉の連なり以上の何かを伝えてしまったりするのだろうか?そして、それは文章をただコピーするだけでは真似ることができない類のものなのだろうか?
 僕はそんなこともわからず、今まで生きてきたのか?そんなこともわからず、小説が好きだなんて戯言を吐いてきたのか?そんなこともわからず、自分の価値がどうのこうのと馬鹿みたいに悩んでいたのか?
 終わった、と思った。終わっていたのだ、とっくの昔に。いつ終わった、ということもなく、ただ、ゆっくり終わっていったのだ。
 しかし、
 しかし、それでも、
 それでも、また、
 僕は思い出す。
 17歳の僕は、大丈夫だ、とまるで何かに取り憑かれたように口ずさんでいた。
 今、惨憺たる惨状の僕は、しかし、それでもまだ、そこに希望を見出そうとしていた。
 自分しか自分に話しかける人間がいない哀れで救いようがない僕という存在を、それでも、どうしようもなく僕はまだ諦めきれないでいる。
 
 日が沈みはじめてから、高円寺のタトゥースタジオに行った。
 生きていくためには、何かを強く欲する気持ちが必要だと思った。
 強い気持ちと強い愛が。
 そういう、何かが。
  
 その日のうちに右足に《祈り》と彫った。 

いとうくんのお洋服代になります。